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【深層レポート】「娘の離反」を生んだ 秋篠宮家「15年の蹉跌」

《紀子さま 「天命です」すべてはあの日から…》《一番の仲良し 眞子さんとのマダガスカル秘蔵写真》《自由を尊重 秋篠宮「もう来ないでくれ」学習院出禁》《3年前の外遊で露呈した “娘に直接言えない” 関係》《悠仁さま 姉の口調を真似て紀子さまに“口答え”》

「週刊文春」編集部

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 眞子さん結婚後初の秋篠宮の肉声。一度も小室さんの名を口にせず、「儀式なし」への悔恨を滲ませられた。悠仁さまご誕生でお立場が一変してからの15年の歩みの先にあったのは、類例のない結婚という“蹉跌”だった――。

 

 その表情には、どこか重荷を下ろしたような明るさが漂っていた――。

 11月30日、秋篠宮の誕生日会見の内容が公開された。長女の眞子さん(30)と小室圭さん(30)の結婚後、初めての肉声だ。

「会見は事前収録され、予定された20分を大幅に超過して1時間に及びました。事前に提出された質問は全5問。このうちテレビカメラの撮影が許可されているのは最初の3問までですが、その全てが眞子さんの結婚に関するものという異例の会見となりました」(宮内庁担当記者)

 だが、そこに「祝福」の言葉は一言もなく、「愛娘の結婚」について語っているとは思えぬ雰囲気だった。最も色濃くそれが感じ取れたのは、この結婚が皇室に与えた影響について聞かれたときのことだ。

「(納采の儀などの儀式は)本来であれば行うのが適当であると考えています。しかし、それを行わなかったことによって皇室の行事、儀式というものが非常に軽いものだという印象を与えた」

 こう語って悔恨の情を滲ませられた後、

「迷惑をかけた方々に対して申し訳なく思っている」

 と謝罪の言葉を述べられた。皇族として類例のない結婚を詫びねばならぬ事態に至った“蹉跌”――。

「その上で、儀式を行わないとの判断をした理由として、小室さんが今年4月に発表した金銭トラブルに関する説明文書を挙げられました。全28頁に及ぶ膨大な文書について『あれを読んでみんながすぐに状況を整理して納得できるというものではないと私は判断しました』と“一刀両断”されたのです」(前出・記者)

 一方で、皇族の「公と私」について問われ、

「彼女(眞子さん)は結婚するまでの間(略)常に公的なものを優先してきていると思います。論調の中の一部に娘が公よりも私を優先させたというのがありましたが、(結婚が公より私を)優先させているということになれば、10年経っても20年経っても結婚はできないということになる」

 と述べ、父の顔と、皇位継承順位1位の皇嗣としての顔の間で揺れ動く苦悩を覗かせられたのだった。

 振り返れば、秋篠宮は当初、“気楽な次男坊”として、皇室の中にあって比較的、自由な立場を謳歌されてきた。だが、06年9月6日の悠仁さまご誕生で状況は一変する。次代の天皇を擁する家――。15年前のあの日から、すべては変わったのだった。

昨年11月「立皇嗣の礼」

トイレ休憩もできない

〈人々が笑みを湛へて見送りしこふのとり今空に羽ばたく〉(秋篠宮)

〈飛びたちて大空にまふこふのとり仰ぎてをれば笑み栄えくる〉(紀子さま)

 06年1月。秋篠宮と紀子さまは歌会始の儀で、揃ってコウノトリの歌を詠まれた。このころ、皇太子妃の雅子さまは適応障害で療養を続けておられ、愛子さまに次ぐ第2子を望むのは難しいとされた。女子の愛子さまに皇位継承資格はない。当時の天皇は、皇統断絶の危機に懊悩しておられた。自然、男児への期待は秋篠宮家に向けられた。

 それは、次代の天皇を自らの手で育てなければならないことを意味する。紀子さまは悩み抜かれた末、秋篠宮にこう仰った。

「これは天命です」

悠仁さま満1歳のお誕生日の御参内

 歌には、お二人の強いご覚悟が込められていた。そして9月、悠仁さまがご誕生。秋篠宮家が、ただの“宮家”ではなくなった瞬間だった。

 このとき、眞子さんは学習院女子中等科の3年生。父娘はきわめて仲が良かった。この年だけでも、秋篠宮は眞子さんを5回にわたり、自身が立ち上げた学会のシンポジウムや公務にお連れになっている。

 7月には伊勢神宮で20年に一度行われる「御木曳」をお二人で視察された。当時、御木曳を披露した藤井宏司さんが振り返る。

「お二人はお立ち台に立たれて、市民が木材を乗せた奉曳車の綱を曳く様子をご覧になっていた。時折、顔を見合わせておられたのが記憶に残っています。お二人はその後、『エンヤ』の掛け声にあわせて、実際に50メートルほど綱を曳かれました」

 07年には秋篠宮が自身の鳥類に関する研究などのため、マダガスカルへ私的旅行に。これに眞子さんも同行された。

「当時のマダガスカルは道も悪く、トイレ休憩もできない。当初は現地の大使館から『女性皇族に来ていただくような場所ではない。眞子さまにはお越しいただかないほうが……』という話がありました」(秋篠宮家関係者)

 だが、秋篠宮は、「眞子はそういうことを問題視しないから」と、全く意に介されなかったという。

「小さいころの眞子さんは決して大人しいお嬢さまではなく、木登りも好きな活発な少女だったそうです。そのことを秋篠宮さまもよくご存じだったので『懸念にはあたらない』と判断されたのでしょう。後にも秋篠宮さまは眞子さんについて『比較的、何にでも興味を示し、どこに行っても楽しむことができる』と語られたそうです」(同前)

 現地では実際に、バオバブの木を見るため、悪路を12時間半かけて車で移動することもあった。チャーター機で移動する日本人観光客もいる中で、秋篠宮は車窓から観察できる植生の変化も重視しておられた。眞子さんもまた、そんな父親のスタンスをよく理解し、旅を楽しんだという。

 秋篠宮にとって、この旅行はかけがえのない父娘の1ページとなったのだろう。今回の会見で眞子さんとの思い出を尋ねられた際も、この旅を挙げられた。

「秋篠宮さまは、眞子さんとバオバブの木の前で撮られた写真を、宮邸の応接間の待合室の壁に飾っておられました。よほどお気に入りの写真なのでしょう。あるとき、赤坂東邸で茶会が開かれた際には、わざわざその写真だけをお持ちになって飾っておられました」(同前)

マダガスカルでの1コマ

 高等科2年生だった08年4月には、東京・上野動物園で開催された野間馬の贈呈式で“単独公務デビュー”を果たした眞子さん。当時の上野動物園園長・小宮輝之氏が振り返る。

「秋篠宮ご一家は皆さん動物がお好きで、眞子さんは乗馬もなさっていた。そこで秋篠宮さまに、眞子さんのご出席をお願いし、ご快諾いただいたのです。秋篠宮さまと眞子さんは仲が良く、幼いころからお二人で動物園にいらしていた。ご関心の方向性も近いように感じていました」

 公務でも私的旅行でも、お連れになるのは佳子さまではなく、眞子さんであることが多かった。姉妹が20歳になるまでに秋篠宮とともに行った外出を伴う公務を数えると、眞子さんは27回、佳子さまは20回。さらに眞子さんは、マダガスカル、ラオス、ハンガリーと3度も父と海外への私的旅行に行っている(佳子さまはなし)。秋篠宮にとって眞子さんが“一番の仲良し”だったのだ。

 公務に同行させて皇族としての自覚を育みながらも、子どもの個性や自由を尊重しようとされた秋篠宮。10年、眞子さんが学習院大学ではなく皇族として初めて国際基督教大学(ICU)に入学したのも、そんな秋篠宮流の教育の賜物だった。そしてICUのキャンパスで、眞子さんは小室さんと出会う。

「皇室に残る必要は……」

 ここから眞子さんの運命は大きく流転し始めた。

 今回の会見でも、小室さんへの複雑な「父の思い」が滲んだ。結婚の挨拶に訪れたときの様子を聞かれ、

「面会していた時間が20分くらいでしたので、何か印象に残ることはとくに私にはありませんでした」

 と突き放されたのだ。

「小室さんを家族の一員と認めていれば、“面会”という言葉は使わないでしょう。さらに小室夫妻の結婚会見についても、2人が一方的に発言をする形式ではなく、記者との質疑応答を設けた双方向での会見にしてほしかったと苦言を呈された。眞子さんに複雑性PTSDの発作が起きる恐れがあるなら、小室さん1人でも双方向での会見ができたはずだ――というお気持ちを明確に示されました」(前出・記者)

 1時間にわたる会見の間、小室さんを「夫の方」「娘の夫」と称され、一度も「小室」の名を口にされなかった。

 そんな小室さんとの交際中から、眞子さんは自身の将来について確固たる意志を持っていた。

「秋篠宮家では年に2回ほど、宮内庁長官や参与、御用掛が出席する話し合いの会がありました。あるとき女性宮家創設が話題になると、参与の1人が『悠仁さまが天皇になられたとき、お姉さま方が支える必要がある』として賛成意見を述べた」(宮内庁関係者)

 これに眞子さんは、

「皇室に残る必要はありません」

 と明言されたのだ。

「出席者たちは驚いたのですが、秋篠宮さまは眞子さんを擁護されていた。秋篠宮さまは眞子さんのお気持ちを尊重しておられたのでしょうが、今後の皇室のことを考えると、不安を覚えた出席者がいたのも確かです」(同前)

 はっきりとものを仰ることの多かった眞子さん。

「時には、紀子さまに対し『バッカじゃない』と、少し乱暴な言葉遣いをなさることもありました。当時小学生だった悠仁さまが、そうしたお姉さまの口調を真似て口答えされることもあったそうです」(同前)

 眞子さんがICUに入学した10年は、もう1つの節目でもあった。悠仁さまがお茶の水女子大学附属幼稚園に入園されたのだ。“皇族は学習院”という固定観念にとらわれない、秋篠宮らしい自由な教育だった。

悠仁さま、幼稚園をご卒業

「学習院幼稚園は2年保育なのですが、秋篠宮ご夫妻は『早いうちから同年代の子と交流してほしい』と望まれ、3年間の一貫保育であるお茶の水を選ばれた。そんな中、10年3月に、学習院初等科2年生だった愛子さまが不登校状態になられました。学習院は雅子さまのお付き添い登校を容認しましたが、皇族を一般の生徒と分け隔てなく教育してほしいと希望されていた秋篠宮は、そんな学習院の対応に違和感を持たれたようです。悠仁さまが幼稚園に馴染んでおられたこともあり、結局、13年に悠仁さまはそのままお茶の水附属小に進学されました」(前出・記者)

 悠仁さまの中学進学が見えてきた18年には、ある“事件”があった。

「当時、学習院の院長だった内藤政武氏は、折に触れて秋篠宮邸に通い、生徒の進学状況などを報告していた。しかし、宮家を担当する加地隆治宮務主管(当時)から『今後、秋篠宮家への報告は控えてほしい』と告げられたのです。要は『もう来ないでくれ』という通告で、内藤氏は“出禁”と受け止め、落胆していました」(学習院関係者)

 慣例にとらわれず、子どもの自主性を尊重してきた秋篠宮。その帰結が、皇族初のICU進学であり、小室さんとの、周囲のSPが時に顔を赤らめるほどの自由で情熱的な恋愛だった。結果、小室家の金銭トラブルについて眞子さんも、秋篠宮ご一家もまったく知らないままに縁談が進んだ。

 眞子さんが思春期の頃から、紀子さまとの考え方の違いが露わになることはあったが、秋篠宮との間柄は良好なままだった。だが、そんな父娘の関係も、18年2月の結婚延期を機に、冷ややかなものとなる。

「同年7月、眞子さんは公務でブラジルを訪問します。こうした海外訪問の際の挨拶文には、秋篠宮さまも目を通され、助言をなさる。実際、15年に眞子さんが初めての海外単独訪問でホンジュラスなどを訪れたときには、秋篠宮さまは直接、眞子さんと挨拶文についてやりとりをされていました。しかしブラジルのときは、秋篠宮さまからの助言は側近職員を通して眞子さんに伝えられていた」(前出・宮内庁関係者)

2018年、ブラジルへの出発時

 秋篠宮が直接言えなかった助言の1つが、眞子さま訪問から遡ること110年前、日本からの移民をサンパウロに運んだ「笠戸丸」の存在をスピーチに盛り込むことだった。

「実際、眞子さんはその助言を取り入れ、ブラジルでの日系人からの歓迎行事で、笠戸丸について言及していました」(同前)

 哀しいかな、こうした愛情溢れる助言も、人を介してやり取りされた。それまで、進学先や公務のことなど、何でも語り合ってきた父娘。しかし、結婚延期後、眞子さんが秋篠宮に相談なさることはなかった。

「眞子さんは、秋篠宮さまが『納采の儀は行えない』と述べざるを得なかったお立場についてはよく理解していた。しかし、自分の結婚の意志は揺らがない。だから話をしても仕方がないと考えておられたのです。また、眞子さんは自身の結婚問題で家庭の雰囲気が悪くなることが、思春期の悠仁さまに与える影響を非常に心配していました。だからこそ家族が集まる場で、結婚の話題が出ることはありませんでした」(同前)

 一方の秋篠宮も、積極的に解決に乗り出されることがないまま、時間だけが過ぎていった。

「秋篠宮さまが『納得できるものではない』と批判なさった小室さんの金銭トラブル説明文書も、結婚会見が一方的なものになってしまったのも、秋篠宮さまが介入も助言もされることなく、眞子さんの“自由”と“自主性”に委ねられた結果なのです」(同前)

 皇族としての「公と私」の問題を突きつけられた眞子さんは、強行婚という形で“離反”し、小室さんと海を渡った。その問いは、秋篠宮家に残されたままだ。

悠仁さま1歳の頃の家族写真

source : 週刊文春 2021年12月9日号

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