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紀子さま「消えた笑顔」 娘の反抗、夫の無理解

《紀子さまの一言に眞子さんの怒り「会話もないのに…」》《6年前ネックレスを娘と“共用”結婚延期後無言の田植え》《佳子さまダンスを母に反対され“偽装引退”》《熱烈新婚“かわいい紀子ちゃん”中国語でこっそり会話》《「あなたはすぐ寝るから…」夫への不満と職員叱責》

「週刊文春」編集部

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 かつて「3LDKのプリンセス」と呼ばれた紀子さまだが、予想もしなかった形で「将来の国母」となり、時に批判的な報道にも悩まされるようになった。そして今年、愛する父を喪い、娘は異国へ旅立った。その胸に今何が……。

 陽光が降り注ぐメタセコイアの林の中を、談笑しながら歩んでこられるお三方。11月30日の秋篠宮(56)の誕生日にあたり公開された、赤坂御用地で秋篠宮と次女の佳子さま(26)、悠仁さま(15)が語り合われる映像だ。

 結婚し渡米した長女の眞子さん(30)はもういない。さらに、例年なら秋篠宮の隣に寄り添われる紀子さま(55)の姿も、そこにはなかった。普段よりお二方も少ないためか、今年の映像は、ご一家の雰囲気もどこか寂しげに見える。

先月56歳になられた秋篠宮

「紀子さまは11月4日に死去した父・川嶋辰彦学習院大学名誉教授の服喪期間のため、撮影への参加をご遠慮されました。同6日に行われた家族葬では、紀子さまは車の中でもうつむかれ、遠目に見ても憔悴しきったご様子でした。紀子さまにとっては、眞子さんの渡米という寂しい出来事に川嶋氏の死去が重なり、さぞご心痛だったことでしょう」(宮内庁担当記者)

学習院大時代の紀子さま

 ご成婚時、日本中を魅了した「紀子さまスマイル」。23歳の花嫁は、やがて「次代の天皇の母」という重責を背負った。初々しかった笑顔はいつしか「氷の微笑み」と呼ばれるようになった。そして近年、令和皇室に大きな波紋を広げた眞子さんの結婚問題に直面し、紀子さまは心からの笑顔を失ってしまわれたように映る。

 運命に翻弄され続ける紀子さま。その31年間に、何が起きていたのか。

9月に55歳になられた紀子さま

 90年6月に結婚され、秋篠宮妃となられた紀子さま。夫となる一歳上の礼宮(当時)と出会ったのは、紀子さまが学習院大学に入学された85年のことだった。翌年6月には礼宮が目白の交差点でプロポーズしたというから、眞子さんと同様、大学キャンパスでの“電光石火の恋”だったことが分かる。

目白のレストランでデート

 結婚前には、お二人だけが読めるよう、英語や中国語、タイ語などの手紙を交わしていたという秋篠宮と紀子さま。その熱愛ぶりは、結婚してからも変わらなかったようだ。

「新婚のころ、秋篠宮さまは紀子さまを“小紀(シャオ・チー)”と呼んでいました。中国語で“かわいい紀子ちゃん”といった意味です。他にも、職員に内容を悟られないようにするためか、ときどき英語や中国語で会話なさっていた。秋篠宮さまが“I love you”と仰ることもありました」(元秋篠宮家職員)

1989年、婚約会見後に見つめ合うお二人

初めてのポテトチップス

 お住まいの赤坂御用地を、手を繋いで散策されることも多かったというお二人。91年には眞子さん、94年には佳子さまという二人の子宝にも恵まれた。

「子育てをなさるうえで、紀子さまが模範とされたのは美智子さまでした。子どもたちの玩具は、かつて美智子さまがお子さま方に使わせていたのと同じものを買い求められ、眞子さんには美智子さまの子育てと同様、布おむつを使用した。若くして民間から皇室に入られた紀子さまにとって、初めて民間から皇太子妃となられた美智子さまは、当時から畏敬の対象だったのです」(皇室担当デスク)

 元来が真面目で、佳子さまご誕生の年に刊行された秋篠宮さまの著書『欧州家禽図鑑』では、挿絵の鶏の毛を一本ずつ細密に描かれたほどだった紀子さま。お子さま方のご教育にも熱心だった。元学習院初等科長の川嶋優氏が振り返る。

「眞子さんが学習院幼稚園に通われていたころ、私が父兄に講演を行ったことがあった。紀子さまはちょうど公務でいらっしゃることができなかったのですが、後日『どんな講演だったのか、聞かせてほしい』と連絡があったのです。そこで宮邸にお伺いして、お菓子をつまみながら、紀子さまと一対一でお話をさせていただきました」

眞子さん

 他の宮家からは、就学前のお子さま方に礼儀作法や言葉遣いを指導してほしいと請われ、7、8名のお子さまにお教えしたという川嶋氏。だが、秋篠宮家は紀子さまがご自身で教える方針だったのか、依頼されたことはなかったという。

 食育にも注力された。

「佳子さまは小4のころ、習われていたフィギュアスケートの合宿で初めてポテトチップスを口にされたそうです。眞子さんも中学生のときに、ケンタッキーフライドチキンを食べたことがなかったため、友人に連れて行ってもらったとか。秋篠宮家の食事は職員が作っており、紀子さまが料理をなさることは滅多にありませんでしたが、食事の内容には相当なこだわりがおありだったのでしょう」(前出・デスク)

佳子さま

 このころはあくまで一宮家であり、世間からの注目度も低かった秋篠宮家。ご一家には自由でおおらかな雰囲気があった。しかし、ご夫妻をとりまく環境は徐々に変化を見せ始める。

 03年12月11日、湯浅利夫宮内庁長官(当時)は記者会見でこう語った。

「皇室と秋篠宮一家の繁栄を考えると、3人目を強く希望したい」

眞子さんの私的家庭教師

 無論、長官個人の意見ではありえない。

「東宮家に第二子の兆候がなく、このまま男児が生まれなければ、皇統が断絶する危機的状況にあったのです」(前出・デスク)

 そして翌日、雅子さまの長期静養が発表された。

 男児を産むことはすなわち、将来の天皇を自らの腕に抱くということ。“気楽な次男坊”とされた秋篠宮と結ばれた紀子さまには、皇室に入ることのプレッシャーはあれど、皇位継承に関わることになるとは想像もしておられなかったはずだ。流転した運命――。その重さに、紀子さまが涙されることもあった。だが、「これは天命です」と秋篠宮に決意を示され、06年9月に悠仁さまを出産された。紀子さまが、将来の国母となられたのだ。

2006年、悠仁さまご誕生

 秋篠宮家の教育方針は、子どもの興味を伸ばし、自主性を尊重すること。悠仁さまが生まれてからも、その姿勢は変わらなかった。10年、それを象徴するような出来事があった。眞子さんが国際基督教大学(ICU)に入学、悠仁さまがお茶の水女子大学附属幼稚園に入園されたのだ。いずれも皇族としては初めての選択だった。

「じつは秋篠宮さまも、大学進学にあたり、学習院ではない別の大学を希望されたことがあるそうです。しかし、結局それは叶わなかった。秋篠宮さまは“皇族は学習院”という慣習を嫌われ、ご自身が得られなかった“自由”をお子さま方に託されたのでは」(同前)

 眞子さんがなぜICUを志望したのか。これには「紀子さまにとって非常に大切な方」(秋篠宮家関係者)の影響があったようだ。

「眞子さんが学習院女子高等科のころ、英語の家庭教師が私的に雇われました。ICU出身の、当時40代の女性です。フリーの翻訳家で、海外ミュージシャンやコンサートスタッフの通訳としても活躍していた。彼女を紹介したのは、このころまで長らく秋篠宮家の侍女長を務めていた飯島蘭子さんでした。飯島さんも同じくICU卒だったため、その繋がりがあったようです。眞子さんはこの家庭教師からICUの話を聞き、憧れを抱いたのかもしれません」(同前)

 この女性はご一家、とりわけ紀子さまからの篤い信頼を得たという。

「後年、眞子さんが英レスター大大学院に留学した際には、同時期に渡英して準備などを手伝っていたほどでした」(同前)

 だが、秋篠宮が望まれた“自由”は、徐々に秋篠宮家の歯車を狂わせていく。その萌芽が現れたのは、佳子さまが学習院女子高等科のころだ。

「フィギュアスケートに打ち込まれていた佳子さまですが、中学時代にだんだんとスケートリンクから遠ざかるようになった。ご本人が進級試験などで『特別扱いが嫌』と漏らされたり、怪我をされるようになったこともありましたが、紀子さまが『危ないから』と反対されていたのも大きかった。そこでフィギュアの代わりに佳子さまが熱中されたのが、ダンスでした」(宮内庁関係者)

ダンスを楽しむ佳子さま

 高等科1年だった10年、文化祭で有志を募り「KYS」というグループを結成。メンバー紹介では「セクシーな腰振りが魅力の佳子」と紹介され、そのキャッチコピー通りのセクシーなダンスを披露された。紀子さまも悠仁さまを連れて見学に訪れられた。

「このころから紀子さまはフィギュアと同様、ダンスにも反対なさるようになったのです」(同前)

 子どもの自主性を重んじてきた秋篠宮家にあって、紀子さまはなぜ佳子さまのダンスに反対されたのか。それは、秋篠宮家の中で紀子さまが唯一“空気を読む”ことに長けていたのが理由のようだ。

「紀子さまは、佳子さまのセクシーダンスが報じられることで世間から批判を受けたり、美智子さまからお叱りを受けるのではないかと気にしておられました。それで佳子さまと衝突されたのです」(同前)

 佳子さまはこのころ、皇族としてのお立場に悩まれ、

「自由もない、人権もない。早くここから抜け出したい」

 と漏らしておられた。

「精神的に不安定になることもおありだった佳子さまにとって、ダンスは心の支えだった。一時期はお母さまのお言いつけに従って“偽装引退”、つまり辞めたフリをなさったのですが、結局は湧き上がる情熱を抑えきれなかった。それで、高等科2年のころには“もう母親の言うことは聞かない、自分のやりたいことをやる”と固く決意されたのです」(同前)

 13年の学習院大学入学時、ダンスサークルへの参加を希望された佳子さま。

「結局、警備の都合や人間関係のお悩みもあり断念されたそうですが、その代わりに眞子さんに誘われ、眞子さんが通われていたICUのダンスサークルの練習に参加。その後は民間のダンススクールに入会されました」(前出・記者)

秋篠宮家のプライベートマネー

 佳子さまとの攻防があったころから、紀子さまの笑顔は「氷の微笑み」と称されるようになる。宮内庁で“ご難場”と呼ばれる秋篠宮家の実態が報じられるようになったのだ。

「紀子さまが女性職員を『あなた、自己中ね』と叱責なさったというのが代表例。他にも職員に細かくて厳しい指示を出されるため、職員が次々と辞めてしまったのです。ただ、このころの秋篠宮家は、皇位継承者をお二方も擁しながら、職員はわずか16名。予算も、天皇家と東宮家のプライベートマネーである内廷費が年額3億2400万円だったのに対し、秋篠宮家の皇族費は5490万円。限られた人数や予算の中で宮家を切り盛りなさる紀子さまへの負担は大きかった」(同前)

 批判的な報道の傍らで、佳子さまの“反乱”はあったにせよ、ご家族の絆は固かった。13年、秋篠宮の誕生日会見の際に、紀子さまは葉っぱを象ったゴールドのブローチを身につけられた。じつは、これは佳子さまが贈られたものだった。

「15年、眞子さんが秋篠宮さまとテニスの楽天ジャパンオープンの試合を観戦された際、眞子さんはテニスラケットにボールがあしらわれたネックレスを着けていた。これは、紀子さまが結婚直後にテニスをなさる際などに着けられていたものと同じデザインでした」(同前)

 ブローチを贈り、アクセサリーを“共用”する。そんな微笑ましい母娘関係に亀裂が生じたのが、眞子さんの結婚問題だったのだ。

「紀子さまは当初、眞子さんのお相手である小室圭さんのことを『丁寧で穏やか』だと褒めておられた。それが、17年12月に小室家の金銭トラブルが報じられると、態度を一変なさったのです。結婚を延期するというのも紀子さまの発案でした。眞子さんは、お母さまの変節を、早くから結婚に反対なさっていた美智子さまの影響だと感じ取っていました」(前出・秋篠宮家関係者)

今年10月26日、結婚会見に向かう眞子さんをハグする佳子さま

 紀子さまは18年11月の秋篠宮の誕生日会見で、眞子さんの体調に言及された。だが、それも眞子さんの怒りを招いた。

「紀子さまは、眞子さんに直接、体調を尋ねることができずにいた。それなのに会見では“会話もないのに体調を把握なさっているような口ぶりだった”と、眞子さんは反発。紀子さまとは言葉を交わさなくなってしまったのです」(同前)

 秋篠宮家には田んぼや畑があり、ご一家が田植えをされることもある。眞子さんも加わったが、秋篠宮や紀子さまと会話をされることはなかったという。

 さらに、結婚問題の陰で、紀子さまにとって痛恨の出来事が起きていた。

「紀子はずっと頑張ってきている」

 小室家の金銭トラブルが報じられる前のこと。美智子さまは、名誉総裁を務めておられた日本赤十字社の近衞忠煇社長(当時)ら幹部にこう仰った。

 来る19年の天皇退位にあたり、美智子さまも赤十字の名誉総裁を退任なさる。美智子さまは続けて、

「名誉総裁は皇后しかできないのでしょうか」

 とお尋ねになったのだ。

美智子さま

「赤十字側は、美智子さまが“後継は紀子さま”とお考えだと受けとめた。順当に考えれば、引き継がれるのは皇后になられる雅子さま。ただ療養生活が長い雅子さまは03年を最後に同社の全国大会をご欠席。美智子さまが、真摯に出席を続けてこられた紀子さまへの引き継ぎを検討されたとしても無理からぬことでした」(前出・デスク)

「マイペースな秋篠宮さま」

 だが、眞子さんの結婚延期が公表されてから3カ月後の、18年5月。美智子さまの最後のご出席となった全国赤十字大会で、美智子さまがご退場の折に腕を取られたのは、紀子さまではなく雅子さまだった。美智子さまはそのまま、会場に向けて二人でお辞儀。それは、来場者に「後任は雅子さま」と紹介なさるようなお振る舞いだった。

「紀子さまは名誉総裁を引き継げると期待しておられただけに、“小室さんの件で美智子さまの不興を買った”と焦っておられた」(前出・宮内庁関係者)

 結婚からこれまで、ずっと紀子さまは美智子さまへの畏敬の念を絶やさずにきた。子育ては美智子さま流に倣ったほか、「着物の柄も美智子さまと同様、小づきの柄を好まれる。美智子さまがお召しになった着物を、紀子さまがお召しになっていたこともある」(皇室に着物を納める「染の聚楽」の高橋泰三氏)という。その美智子さまのご決断に、紀子さまが心を痛められたのは想像に難くない。

 加えて、紀子さまの表情を翳らせているのが、悠仁さまの教育問題だ。

「秋篠宮さまは“自由”や“ありのまま”を尊ぶお方。悠仁さまにも特別な帝王教育をする必要はないと考えておられる。一方、紀子さまは悠仁さまの教育を、秋篠宮家だけではなく皇室全体の問題だととらえ、非常に心配しておられる」(前出・宮内庁関係者)

 紀子さまが、秋篠宮のなさりようを注意されることもあるのだという。

「皇族の方は地方の公務の際、出迎えの人に言葉をかけますが、マイペースな秋篠宮さまは足早に通り過ぎられることがあるのです。また、上皇陛下は電車でも、沿道に人が立っていそうなところは事前に頭に入れておいて、その場所にさしかかると手をふられていた。秋篠宮さまはそれもなさらないのです」(同前)

 あるとき、紀子さまがそのことを指摘され、

「あなたは、電車に乗ってもすぐに寝てしまうから」

 と仰ったこともあった。

“無理解”なようにも見える秋篠宮の性格を、悠仁さまも受け継いでおられるという。

「紀子さまが『伝統でこうするものなのよ』と仰っても、悠仁さまは『なぜそうなのか』をお尋ねになる。伝統や世間の風向きなどを重んじられ、情緒的に説得なさる紀子さまに、悠仁さまは理詰めで迫り、最終的に紀子さまが言い負かされてしまうのです」(同前)

 実家の川嶋家では「オールウェイズ・スマイル」がモットーだった紀子さま。その晴れやかな笑顔が早く戻ってほしい。

2011年、秋篠宮の誕生日に

source : 週刊文春 2021年12月16日号

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