「棋力の上達には良い駒を持つことだ」
かつて大山康晴十五世名人はファン向けにこう語ったという。
良い道具を持てばそれを大事にする気持ちも湧く。そこから技術の向上にもつながる。このような教えなのであろう。
手軽さ、簡単さが好まれる現代、時間を掛けて「本物」に出会うことが少なくなっている。それだけにこの言葉が心に染みるのだ。
良い将棋盤の材質は本榧(ほんかや)で、厚みは五寸(約15㎝)以上。値段も100万円を超えるものまであるが、流行り廃りがない分、一生ものである。
駒の材質はツゲの木が良いとされ、駒の生産地として有名な山形県天童市のシェアは、90%を越える。
駒師が一枚ずつ駒に文字を彫り、そこに漆を入れる。漆の重ね塗りで文字が駒より盛り上がる「盛り上げ駒」はもはや芸術である。
なお、名古屋市内にある徳川美術館では、将軍家から尾張徳川家に嫁いだ千代姫様の嫁入り道具として、国宝の将棋盤が収蔵されている。これは公開時に是非一度見ていただきたい。
私たち棋士が一番こだわるのはもちろん将棋の内容だが、それでも良い盤駒の一組ぐらいは持っている。私も師匠の板谷進九段からいただいた駒、また自身で買いそろえた盤駒などが何組かあり、弟子との研究会で使っている。
板谷九段は盤駒の収集家でもあり、将棋盤は産地の宮崎まで自ら足を運ぶほどだった。師匠のお宅には盤になる前の原木がゴロゴロ並んでいた。
駒への思い入れも同じ。天童将棋駒の駒師・村川秀峰氏(故人)とは長い交流があり、非常に懇意にされていた。
私自身も板谷進の弟子ということで村川氏には何度も声を掛けていただき、地元のある番組の企画でご自宅にまでお邪魔したこともある。2017年、藤井聡太四段(当時)が公式戦29連勝を達成した対局で使われたのは、奇しくもこの村川氏の駒であった。
もう師匠にも村川氏にも会うことは出来ないだけに、時を超えた繋がりを懐かしく思うのだ。
長い棋士人生、私も駒に対する思い入れは当然あるが、駒が原因のハプニングも思い出す。それは気合いを入れすぎた記録係が、対局前に手番の先後を決める振り駒で、5枚の歩を畳の上に散らした時だ。
蛙飛び込む水の音……全く風流でないある音が響いたとき、対局室の空気は一変する。
(チャポン)
「あっ」
「ああ、失礼しました!」
大慌てでお茶の入った対局者の湯飲み茶碗を下げ、中の駒を拭きにいく記録係。新人が希に引き起こす風物詩?でもあった。
なお、コロナ禍によりお茶の用意が無くなったので、今では見ることはまずない。
モノには魂が宿る……こんな考え方は日本的なんだそうな。私たち棋士にとって将棋盤と駒は神聖なものであり、盤を跨いだりすると師匠や先輩が厳しく注意する。将棋の神様に失礼であると。
多様性が求められる現代だが、大切なものは残して後進に伝えたい。

source : 週刊文春 2022年1月27日号