第二次安倍政権の誕生と同時に内閣官房参与に任命され、7年8カ月、安倍官邸を支えた飯島勲氏(76)が長期政権の理由を語る。
安倍さんと初めて会ったのは40年前、昔の議員会館の食堂です。神戸製鋼を辞めて、外務大臣だったお父さん(晋太郎氏)の秘書官になった頃でした。私なんか柄が悪いもんだから、上着も脱いでサンダル履きで行くんだけど、安倍さんはきちっと背広を着てピカピカの革靴を履いて、背も高いし、なんとスマートな貴公子かと思いましたよ。いかにも品が良いんだけど全然嫌味じゃない。祖父が岸信介で、大叔父が佐藤栄作という途方もない一族の中で育ったからか、独特のオーラがありました。そんな安倍さんの政権が7年8カ月も続いたのには三つの理由があったと思います。
一つは選挙での強さ。12年末以降、衆参6回の選挙で全勝。特に17年には、モリカケで追及を受ける中で解散をズバッと決断した。勝機の見極めが水際立っていました。第一次政権退陣のきっかけとなった07年参院選で、民主党(当時)に子ども手当だ、農家への戸別所得補償だ、と先に土俵を作られた失敗を忘れていなかったんだ。アベノミクス解散、国難突破解散と先手、先手で攻めていった。
二つ目が外交におけるチャレンジングな姿勢。7年8カ月で計81回外遊に行きましたが、私はそのうち79回に同行しました。会談ではどこの国のトップとも顔見知りで、すっと本題に切り込んだ。
13年5月、私は拉致問題解決のため極秘で北朝鮮を訪問しました。事前に報告していたのは安倍さんと菅義偉官房長官(当時)だけ。外務省は後でカンカンだったけど、この時も安倍さんは一言、「頼みます」と送り出してくれた。どんなパイプだろうが、使えるものは何でも使って拉致問題を解決したい、という安倍さんならではの胆力でした。
日ロ外交でも、プーチン氏と27回も会談を行い、お父さんが命がけで取り組んだ対ソ外交の決着をつけようと努力された。外交はすぐに結果が出るものではありませんが、前例踏襲ではなく、リスクを取って、膠着した日朝関係、日ロ関係を1ミリでも前に進めようとされた。ウクライナ侵攻の後になって批判する人がいますが、その姿勢は真に尊いものでした。
三つめがチーム力です。第一次政権では「官邸崩壊」「お友達内閣」と揶揄されましたが、第二次政権では今井尚哉政務秘書官を中心に官僚たちの「チーム安倍」が実にうまく機能していました。そこに菅官房長官、政務と事務の官房副長官らが加わって結束が乱れることがなかった。
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source : 週刊文春 2022年7月21日号