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「クリスマスは嫌い」ノッポさんを生んだ極貧時代

「週刊文春」編集部
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「僕はね、風のように逝くからさ」

 

 ノッポさんこと高見嘉明氏(享年88)は、数年前からこう口にしていたという。NHK教育テレビ(現Eテレ)の長寿番組「できるかな」(1970〜90)で親しまれた子どもたちのアイドル。生涯の当たり役を得たのは、紆余曲折を経た32歳の時だった。

 高見氏は1934年、京都市に生まれた。役者の父が相撲茶屋の娘だった母と駆け落ちして誕生した第4子。幼少期、子どもだからと周囲の大人が取り合ってくれなかったことを鮮明に覚えていた。所属事務所代表の古家貴代美氏が語る。

「大人を“大人ども”と言わないように、高見さんは『子ども』を必ず“小さい人”と呼んで、対等に接してきました。子どもは、思っている以上に賢く、大人の世界を観察して理解しているものだと自身の体験から考えていたんです」

ノッポさんと父

 太平洋戦争が始まると岐阜県に疎開。夏目漱石や谷崎潤一郎ら文豪の作品を読み漁り、米国のミュージカルスターだったフレッド・アステアに憧れて映画館に通う思春期を過ごした。

 高校時代は、「チャーリー高見」を芸名とした父のかばん持ちを務めた。卒業後も定職に就かず、東京で美容器具を製造する長兄の仕事を手伝い始めたが――。

「あんたには普通のお勤めは無理。お父さんのように何か演(や)ればいいのよ」

 そう言ってタップダンスなどの習い事を勧め、資金援助をしたのが、一回り近く年の離れた姉だった。

宮沢賢治を愛した

 そして、高見氏を支えたもう1人の女性が、1960年、26歳の時に結婚した妻だ。東京・阿佐ヶ谷の四畳半一間のアパートで新婚生活を始めたものの、当時の高見氏は失業中。妻が家賃や生活費を捻出した。鳴かず飛ばずの高見氏は1行300円で幼児向けの歌の作詞を始めたが、年収は10万円程度。先の見えない極貧生活を送った。高見氏は街行く人たちが幸せそうに映るクリスマスの季節が嫌いだったという。「ジングルベル」も苦手な歌になってしまった。自伝にはこう綴られている。

〈後年、クリスマス・ショーに起用されても「あのう、『赤鼻のトナカイ』じゃいけませんかァ」と言って演出家に妙な顔をされたものである〉

 転機は1966年、NHK教育テレビの「なにしてあそぼう」に知人の紹介で起用されたこと。言葉を一切話さないノッポさんが造形遊びをする内容だった。

「約4年後、好評だった番組が『できるかな』にリニューアルされた当初、実は高見さんが出演していなかったんです。ところが、幼稚園や保育園から『園児たちがノッポさんじゃないと観ない』という声がたくさん届いて、番組に復帰したんです」(前出・古家氏)

NHK「みんなのうた」で再ブレイク 写真提供:はっとふる

 はまり役の「できるかな」は、20年続く人気番組に。実は、高見氏は手先が不器用だったという。

「音楽に合わせて一生懸命に作る。だから完成した時の笑顔は、毎回心から嬉しそうなんです。その楽しさが画面を通じて伝わっていたと思います」(同前)

 番組終了後も人気は衰えなかった。講演やイベントで、チューリップハット姿の高見氏が登場すると、会場の大人たちは“小さい人”に戻って感激したという。

 自ら作詞した「グラスホッパー物語」で歌手デビューを果たした05年、芸名を「高見映」から「高見のっぽ」に変えている。

 趣味は読書と麻雀。20年来の麻雀仲間が明かす。

「一人勝ちするような展開を望まず、場を楽しみ、品格がにじみ出ている麻雀でした。亡くなる1カ月前も卓を囲みました」

 心不全で永眠したのは昨年9月10日のことだ。

「特に持病もなく、亡くなる当日も大好きなお肉を食べるなど元気な様子で、親子イベントの仕事も入っていたんです」(前出・古家氏)

 30代で大輪の花を咲かせ、生涯現役を貫いた高見氏は、予告通り、風のように逝った。

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source : 週刊文春 2023年5月25日号

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