康永4年(1345)8月、京郊嵯峨に新築された禅寺、天龍寺の落慶供養の準備が、室町幕府により着々と進められていた。仏殿、法堂(はっとう)、庫裏(くり)、僧堂の他、多くの寮舎が建ち並び、天皇家の勅願寺、幕府の祈祷所として天龍寺の威容は周囲を圧倒するものがあった。この年は、ちょうど後醍醐天皇の七回忌にあたる。心ならずも政敵となった後醍醐の菩提を弔うため、足利尊氏・直義(ただよし)兄弟は、この壮大な禅宗寺院の建立を思いついたのだった。
この幕府の総力を挙げた一大イベントは、敵対していた南朝の総帥を供養するという趣旨ともあいまって、当時の人々に室町幕府権力の確立と、長い南北朝の争いの終わりを印象づけるものでもあった。
ところが、この式典に「待った」をかけた勢力があった。当時の仏教界に君臨する比叡山延暦寺である。延暦寺は、新興勢力である禅宗が幕府の庇護を受け大きな力を持つことを不快に感じていた。しかも今度の落慶供養には、事もあろうに光厳(こうごん)上皇までが参列するとの話もあった。禅宗の連中め、調子に乗りおって! 延暦寺の僧徒3000人は怒り狂い、式典に抗議を申し入れたのである。
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source : 週刊文春 2023年6月15日号