1月に起きたJAL機炎上事故。重傷の海保機長が搬送されるまで1時間半以上を要したが、羽田における救急体制の脆弱性は一向に改善していない。ひとたび大事故が起きれば、助かる命も助からない状況にあるというのだ。
悪夢は現実となってしまった――。
1月2日、17時47分の羽田空港。海保機がC滑走路で停止してから40秒後、JAL516便が海保機と衝突、海保機は爆音とともにオレンジ色の炎に包まれた。

記憶に新しいJAL機炎上事故から半年が経過した。国土交通省などが再発防止策を明らかにするなか、未だ論じられない、もう一つの死角が存在する。
筆者の手元には羽田空港の“今そこにある危機”が記された複数の文書がある。そのうちの一つが《羽田空港航空機衝突事故 医療救護活動報告》という文書だ。事故時の救急対応を詳細にレポートしたものである。
まずこの文書からJAL機炎上の裏側で何が起きていたのか振り返ろう。
事故発生から5分後、17時52分に東京消防庁に出動要請の電話が入る。さらに5分後、非常順次通報装置が起動し各所に通知が行く。18時には各医療機関に自動音声電話での通知が行われた。
海保機は炎上。JAL機からも火の手が上がるなか、客室乗務員らが大混乱に陥った乗客を誘導すべく慌ただしく準備を進める。約18分で乗員乗客379人全員を避難させたことは、後に“奇跡の脱出劇”と評された。
18時26分頃に東京消防庁の救急車が到着。海保機から脱出したものの全身に火傷を負った機長は重傷だった。一方、JAL機は搬送対象の傷病者4名がいたが、この資料では「軽傷」と記されている。救急搬送が必要とされた海保機長は自力で歩いて救急車に収容される。
だが、ここで問題が起きる。救急車がすぐに発進できなかったのだ。19時30分すぎ、海保機長を乗せた救急車がようやく出発する。救急車は、重傷者がいたにも関わらず空港で1時間あまりも停車したままだった。
◇
3期目の都知事選に名乗りを上げた小池百合子東京都知事は、6月18日、公約の柱の一つとして「首都防衛 あらゆる危機からもっと!都民の命と生活を守る。」を掲げた。

6月16日には、小池氏は狛江市総合水防訓練に出席し東京消防庁のヘリコプター訓練などを視察。Xにこうポストしている。
《「備えよ、常に」が第一! 都民の財産と命を守る首都東京の強靱化を爆速で進めます》
「備えよ、常に」との掛け声とは裏腹に、東京の玄関口である羽田空港は海外の医療従事者から「サバイバルエアポート」と評されている。一体なぜか。
羽田空港の医療関係者がその理由を解説する。
「羽田空港の救急体制があまりに脆弱だからです。大事故が起きた時に、“防ぎうる死”が羽田空港では防げない。その背景には、東京都と、都の管轄下にある東京消防庁が“命を守る”体制作りに非協力的という事情があるのです」
JAL機炎上事故において、なぜ救急車は1時間超にわたって動かなかったのか。
その答えは3月28日、羽田空港の特別会議室で行われた「航空機衝突事故における医療救護活動の課題検証」会議で明らかになった。議事録には次のように記されている。
出席者A「観察して東邦大学救命センターへ連絡するまでは早かったが、病院決定してから制限区域内から出るまでに先導車がいなかったことで退場までに時間を要した」

空港は救急車にとっては難所とされる。敷地が広大であり、空港内の走行は国交省航空局等の許可と先導車が必要となるからだ。
救急車の出発が遅れたのは、先導車がおらず、救急の連携が各所と取れていなかったことが原因だった。
前出の医療関係者が苦渋の表情で語る。
「救命救急の世界では『事故発生後、1時間以内に病院に搬送されれば救命率は高くなる』とされている。海保機長を搬送するまでに1時間半以上がかかっているのは明らかに遅い。JAL機側に重傷者がいなかったことは不幸中の幸いでした。もしJAL機の火の回りが早く重傷者が多数出ていたとしたら、救急搬送できずに死亡者が続出したかもしれません」
じつは羽田空港において救急車が機能しないことは、事故の1年近く前から、専門家によって“警告”されていたのである。
ここに小池都政の“不作為の罪”がある。
2023年3月12日、羽田空港内の東京空港事務所で、災害を想定した“極秘演習”が行われていた。主催は東京国際空港緊急計画連絡協議会で、この訓練に集まったのは国土交通省、東京消防庁、そして数多くの医師ら羽田空港の救急に関わる専門家たちだ。
ある医療関係者によって作成された《第2回 羽田空港エマルゴ訓練で東京都のドクターヘリ、消防防災ヘリ使用されず》と題されたレポートには、当日の様子が克明に記されている。
「防ぎうる死」があってはならない
エマルゴ訓練とは災害を想定した救急訓練のことだ。前述した専門家たちがホワイトボード上でマグネットを動かしながら実際のオペレーションを再現し、より実災害に近い訓練が可能とされている。
レポートによると訓練の設定は次の通りだ。
①羽田空港C滑走路でB787-8型機が着陸に失敗し炎上。
②救出された負傷者のトリアージ・医療機関への搬送等を机上訓練で実施する。(※筆者注 トリアージとは数多くの傷病者が発生した状況下で、傷病の緊急度や重症度に応じ優先度を決めること。優先度の高い順から赤、黄、緑、黒の色タグが傷病者に付けられる)
③制限時間は2時間。
④2022年3月31日より、東京都でもDHの運航が開始されたので、搬送先病院を明示。機材はDH1機および消防防災ヘリ2機の使用も可能とする。
衝撃的なのは中型機事故を想定した訓練の「結果」である。レポートでは次のように記されている。
・救護に向かったのは救急車のみで、最初の赤タグ患者が病院に搬送されたのは事故発生の「約1時間30分後」であった。
・2時間の訓練で近隣病院に到着できたのは14名で、赤タグ(重症)の負傷者の半数以上は搬送できなかった。
C滑走路とは、まさに1月2日に衝突事故が起きた現場である。救急車による搬送が遅れることも、1月の事故で起きた現実そのものだった。
訓練ではレポート表題の通り、DHも消防防災ヘリも使用されずに終わった。その原因となったのは東京都の歪な仕組みだった。

東京都のDHは広域連携で運用してこそ効果が高いとされているが、実際にDHが運航できるエリアは多摩地区など西東京地域に限定される。残りの23区や羽田空港を含む東東京地域は、東京消防庁の管轄となっており、主に救急車中心の対応となるのだ。
「訓練では、羽田にDHを飛ばせないなら東京消防庁の消防防災ヘリを使えないのかという声も上がった。医師は乗っていないが、救急車より早く搬送ができるからです。しかし東京消防庁職員は、なぜか『我々では消防防災ヘリを要請できない』と繰り返すのみでした。実際に1月2日の事故発生時は日没後だったので現行ルールではDHは飛ばせませんが、消防防災ヘリは夜間飛行が可能。しかし訓練と同様に、ヘリは飛ばなかったのです」(前出・医療関係者)
この訓練に参加した別の医療関係者が語る。
「訓練は、救われない重症者が多数出るという悲惨な結果に終わった。ある医師は『制限時間2時間以内に、赤タグ負傷者の多くが搬送されなかった。preventable death(防ぎうる死)があってはならない!』と厳しい口調で講評していました」
つまり1月2日のJAL機炎上事故は、エマルゴ訓練で予見された通り、羽田空港が救急空白地帯にあったことを改めて証明した事故でもあったのだ。
羽田空港と対極にあるのが千葉県にある成田空港だ。
成田空港でのDH運用に携わった松本尚・日本医科大学特任教授が解説する。
「千葉のDHを飛ばせないか」
「成田空港では災害時に、DH、消防防災ヘリなどのあらゆるリソースを投入することが出来る仕組みになっている。空港、エアラインと各所で優先すべき事柄が違うなかでルールを作り上げるためには『傷病者の命をどう守るか』という視点と、強いリーダーシップが不可欠です」
DHや消防防災ヘリは、救急車以上の機動力を持ち、救急救命の「切り札」となりうるリソースだ。羽田空港の場合でも、DHを飛ばせば20分以内で医療を開始できるという試算もある。
「救急車では遅い。東京都のDHが使えないなら、千葉県のDHを羽田まで飛ばしてもらえないか」
いま羽田空港関係者の間ではこんな議論が真剣に交わされているという。それほどJAL機炎上事故は、多くの関係者を震撼させたのだ。DHも消防防災ヘリも使えず、救急車の動きは鈍い。羽田空港の救急体制は大きな危険性を抱えているにも関わらず、なぜ放置されてきたのか。
東京五輪を目前に控えた2021年7月。国会でも羽田空港の救急体制が議論となった。羽田空港へのDH乗り入れが提案されたが、「具体的な運用は都道府県が判断する」との結論が出た。
さらに今年4月の国会でも武見敬三厚生労働大臣が1月の航空機衝突事故を受けて「東京都に対してDHの更なる活用の検討を働きかける」と答弁したものの、東京都は一向に改善に動こうとしなかったのだ。
DHの運航、エマルゴ訓練について消防庁と都庁に事実確認したところ、消防庁は答えず、都庁は次のように回答した。
「訓練の主催者は国交省東京空港事務所であり、詳細は承知していません。羽田の救急医療体制について、都は消防への通報に基づき傷病者への対応ができる体制を整えており、救急空白地帯との指摘はあたらないと考えております」
DHの普及につとめるHEM-Net理事の伊藤隼也氏は、「東京都救急システムの抜本的な見直しが必要」と指摘する。
「じつは東京都心部には羽田空港以外にも、河川周辺など、救急車ではフォローできないであろう空白エリアが数多くある。そのような場所でどう救命するかは喫緊の課題です」
小誌6月13日号で筆者は、東京都のDHの問題として約80%という異常に高いキャンセル率や、運航事業者であるヒラタ学園の安全意識の欠如などの問題点を指摘した。
ヒラタ学園は5月28日に国交省から事業改善命令を出されただけではなく、6月19日同学園が運航する徳島県のDHがトラブルで運航停止したことも、新たに判明した。原因は大雨によるブレード(羽)への浸水。格納庫がないため機体が野晒しになっていたことが原因と見られる。同学園の安全管理体制への疑念は未だに拭えない。
「首都防衛」を掲げるならば、小池知事はDHの運航体制を早急に整えるべきではないだろうか。
*HEM-Net(認定NPO法人 救急ヘリ病院ネットワーク)
ドクターヘリによる救急医療システムの普及・促進を目的に1999年に設立された、日本で唯一となるドクターヘリに関するシンクタンク
(あかいししんいちろう/南アフリカ・ヨハネスブルグ育ち。「FRIDAY」、「週刊文春」記者を経て、2019年にジャーナリストとして独立。著書に『完落ち 警視庁捜査一課「取調室」秘録』(文藝春秋)などがある。)
source : 週刊文春 2024年7月4日号
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