伝説のバラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ』のレポーターで一気に知名度を上げ、今やテレビの顔となった高田純次さん。「5時から男」が歩んだ“適当じゃない”軌跡を、演劇史研究者の笹山敬輔さんが伺います。(全3回のインタビュー/#1から続く)
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『笑っていいとも!』でレオタード着て踊るまで
―― 高田さんのテレビ初出演は、『笑点』なんですよね。
高田 東京乾電池として、司会が三波伸介さんのときに1回。本当は2本コントをとって、2週連続で放送する予定だったんだけど、劇団の1人がフンドシに日の丸を描いて出たの。日の丸をそんな風に扱っちゃダメだということで、1本ボツになった。言っとくけど、俺じゃないからね。
―― はい(笑)。そのころは、人力舎に所属してお笑い活動もしていたと聞いたんですが。
高田 人力舎に入ってたわけじゃないんですよ。人力舎に篠原さんというマネージャーがいて、手弁当で僕たちを手伝ってくれたんです。東京乾電池は人気があるといっても、キャパの小さいジァン・ジァンが満席になったところで高がしれてるし、全然お金にならない。だから、人力舎というプロダクションには入れてくれなかった。僕は相変わらず、道路工事やら大道具のバイトやらで食いつないでましたね。
―― 東京乾電池が全国的に知られるようになったのは、1980年に始まったフジテレビ系お昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』へのレギュラー出演からですよね。
高田 「日刊乾電池ニュース」という3分くらいのワンコーナーをもらったの。朝行くと、作家からその日起きた事件を渡されて、控室でああでもないこうでもないって言いながらコントを作るんですよ。それでいきなり本番になるから、カメラマンも動きがわからなくて、俯瞰でしか映さないの。最初は、お客さんが全然笑わなくて辛かった。プロデューサーの横澤彪さんが、「かわいそうだから1クールでやめさせよう」って話までしてたらしいんですけどね。ところが、2カ月過ぎたぐらいから、お客さんの反応が違ってきたんですよ。横澤さんからも「乾電池のコーナー、視聴率上がってきたよ」って言われるくらいになって。それでクビにならないまま、続けることができました。
―― 『笑ってる場合ですよ!』は2年間続いて、そのあと『笑っていいとも!』が始まります。高田さんは、単独でのレギュラー出演になりますね。
高田 僕が「いけにえ」として残されたんですよ。他のメンバーは舞台に戻ったんだけど、僕はテレビで稼ぐ役回りになったというかね。東京乾電池が事務所を立ち上げた頃だったので、コンスタントにお金が入る仕事が必要だったんだね。しょうがないから、何でもやりましたよ。股間をモッコリさせたレオタード着て踊ったり。