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女性レーサーから日産の社外取締役に レースクィーンだった彼女はどう生きてきたのか

女性レーサーから日産の社外取締役に レースクィーンだった彼女はどう生きてきたのか

井原慶子――『こんな家に住んできた 17人の越境者たち』より

2019/02/17
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何度も引っ越しをした子供時代

井原 私の生まれは岐阜県なのですが、NHKの職員だった父に転勤が多く、大学に入るまでは何度も引っ越しをしました。小中学校時代は東京の東村山、高校時代は札幌。家はいつも何の変哲もない3LDKの社宅で、両親と4歳下の妹の4人暮らしでした。

 とりわけ札幌の高校への編入が決ったときは、東京の希望校に合格してからまだ3カ月しか経っていませんでした。父は赴任先に家族を連れて行く方針だったので、本当に理不尽だと思ったものです。だから、札幌時代の私は「優等生」をやめて、少しグレていたくらいで。

 ただ、そのなかで唯一がんばっていたのがモーグルでした。ちゃんと滑れるようになると、大自然のなかで道具を使って自由自在に滑り降りることが快感になって。だから、93年に法政大学へ進学してからも、モーグルはサークルに入って真剣に続けたんです。

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レースクィーンとして「レース」に出会う

「レース」に出合ったのは、大学に入ってしばらくしたときです。当時、渋谷でスカウトされてモデル事務所に所属していた私は、オーディションに受かった富士スピードウェイにレースクィーンとして初めて行きました。

 最初は驚きの連続でした。ハイレグの水着にハイヒールを履くという衣装。ポーズを取る度にシャッターを押す何百人というカメラ小僧たち。90年代後半はレースクィーン全盛時代、アイドルや女優志望の子たちもたくさんいて、誰もがこれまで会ったことのない人たちでしたから。

 そこで心奪われたのが、レーシングマシンの迫力だったんです。スタートの瞬間をピットで見ていると、何十台ものマシンからこの世のものとは思えない轟音が鳴る。彼らが一斉に富士スピードウェイの1コーナーに殺到していく緊迫感に圧倒されて、「なんなんだこれは!」って。

 そのとき胸に抱いたのは、「自分はまだ真剣に生きたことがなかった」という気持ちでした。レーサーはもちろん、ピット内ではメカニックさんやエンジニアさんが、ネジを1本締めるのにも命懸けのような真剣さで取り組んでいる。

翌日から教習所に通って免許を取得

 受験勉強もスキーも頑張ってきたつもりだったけれど、彼らと比べたら本気度が足りなかった。私も頭と体の全ての力を出し切って仕事をしてみたい――それでレーサーになりたい、と思ったんです。そのレースを見た翌日から教習所に通って免許をとりました。そして、レースに出るための資金を貯めるために、アルバイトに励みました。

――レースデビューは1999年。フェラーリのワンメイクである「フェラーリ・チャレンジ」というシリーズだった。その緒戦に辿り着くためには、運転の練習だけではなく、多額のレース費用を稼ぐ必要があった。

井原 私が大学に入学する前後の時期、再び職場が東京に戻ったのを機に、父が府中に戸建ての家を買いました。

 あの頃の家の駐車場には、車高を下げた真っ黒い日産のS13シルビアが停まっていたものです。スキーサークルの先輩から運転の練習用に17万円で買った1台。見た目がまるでゴキブリみたいな改造車で、スキーの合宿で雪山に行ったときの様子から、「ラッセル車」とみんなから呼ばれていました。

レース費用を稼ぐために宅配便の配送も

 レース用のフェラーリと参戦費用を合わせて、アルバイトでの目標は1000万円。セブンイレブンのレジ打ち、スーパーのお総菜売り場、モデル……。日産のドライビングスクールが初めて募集した女性インストラクターにも合格して、掛け持ちで仕事をする日々でした。

 とくに頑張ったのが宅配便の配送です。借り受けたマニュアルミッションの軽自動車のシフト操作を丁寧に行なって、積み荷が微動だにしないようにハンドルを切ったり、アクセルやブレーキの操作をしたり。ドライビングスクールで出会った師匠に、スムーズな運転を心がけるようにと言われていたからです。

 これは今も大して変わらないのが残念ですが、当時は女性が「レースに出る」などと言うと、ほとんどの男性に笑われました。とりわけ多かったのが「愛人になるしかないね」という言葉。レースクィーンとかモデルをしていると、実際に「俺の愛人になったらレースに出してやるよ」なんてよく言われました。その中で私の夢に真剣にアドバイスをくれた師匠は、あの頃の数少ない恩人の1人です。

「キャンギャルレーサー」と報じられたデビュー

 やっとの思いで買ったフェラーリでのデビュー・レースは、無我夢中であっという間に終わってしまいました。頭が真っ白で、何も覚えていないくらい。でも、そのレースで3位になったんです。翌朝のスポーツ新聞には私のレースクィーン姿の写真がバーンと出て、「キャンギャルレーサー」と報じられたんですよ。朝、自宅で新聞を見た父親からは一言、「気を付けろよ」と言われただけでした。

――同年のシリーズの中で井原さんは3勝を挙げる。本場イギリスのレーシングスクールの短期プログラムに参加し、首席で卒業もした。そんななか、翌2000年からイギリスにわたり、フォーミュラ・ルノーのシリーズに参戦する。