文春オンライン
女性レーサーから日産の社外取締役に レースクィーンだった彼女はどう生きてきたのか

女性レーサーから日産の社外取締役に レースクィーンだった彼女はどう生きてきたのか

井原慶子――『こんな家に住んできた 17人の越境者たち』より

2019/02/17
note

ハングリー精神を求め海外へ

井原 海外で闘わなければならない――そう確信したのは、フェラーリ・チャレンジの世界1決定戦に行き、イタリアでのレースを経験したことが大きな理由でした。各国のチャンピオンクラスが集まるレースで、彼らのまるでライオンみたいなハングリー精神に圧倒されて。レース中にちょっと油断したら、「ガオー!」と食らいつかれ、一気に何台にも抜かれるんですから。

 前を走るマシンにノーズで触れたり、ホイールをカンカンと軽くぶつけたりするのも当たり前。例えば後にフランスのチームにいたとき、担当のメカニックはこう言って私をコースに送り出していました。

「World WarⅡ!!」

ADVERTISEMENT

 相手を殺してやろうというくらいの気合いがなければヨーロッパではビリになってしまう。このまま日本に居続けても、あの世界には行けないと実感しました。

 挑戦の場にイギリスを選んだのは、知り合いの佐藤琢磨君が向こうにいて、彼のマネージャーの方が声をかけてくれたからです。紹介されたのは父親がオーナー、母親がマネージャー、耳にピアスをあけた男の子がメカニックをしている家族経営の小さなチーム。拠点はノーフォークという田舎で、イギリス中のサーキットを転戦したんです。

新居はセナがルーキー時代に住んでいた部屋

 ノーフォークは100メートルくらいの通りに、商店が10軒ほど並ぶだけの町です。近くにスネッタートンというサーキットがあり、レース関係のショップやファクトリーが周囲に集まる「レース村」なんです。

 町にはレース関係者の集まるパブが3軒あって、私はそのうちの一軒の2階の屋根裏部屋に最初は住むことになりました。ベッドが1つあるだけで、夜はいきなり1階からヘヴィメタが大音量で流れ始めたりするけれど、あのアイルトン・セナもルーキー時代に住んでいた部屋でした。そこにしばらくいた後、チームの用意してくれた古い1軒家の2階に引っ越したんです。

日本人だからと差別された悔しさ

 スーツケースを引きずってこの村に来たとき、私は初めての1人暮らし、しかも海外ということで、「ここに私が住むんだ」とわくわくしていました。でも、実は新居での思い出はあまり良いものではないんです。というのも、隣のお肉屋さんの店員のおじさんたちが、売れ残りの腐った卵をがんがん投げつけてきたからです。理由を聞いたら「日本人が嫌いだからだ」と言われ、それからの毎日は胃が痛くて泣いていました。にこにこと笑ってお肉を買いにいくうちに誤解が解け、最終的にはバーベキューに誘われるほど仲良くなれたのですが、今でも日本人だからと差別された悔しさは胸に残っていますね。

自分を変えたシューマッハからのメッセージ

 ただ、これが昔の自分だったら、そんなふうにコミュニケーションを取ることはできなかったと思います。それまでの私は苦手な人からは遠ざかるようにしていました。でも、あのときは卵を投げつけてくる人たちに向かっていけた。それができたのは、フェラーリ・チャレンジのセレモニーでミハエル・シューマッハに会ったとき、彼に言われたこんな言葉を肝に銘じていたからです。

「どんな環境でも自分のモノにする覚悟を持ちなさい。嫌な奴を自分の味方に付けられるようになると、それが結果につながるから」

 世界中の実力者が集まる場所でチャンピオンになるためには、速いだけではダメ。不利なマシン、嫌いな奴も含めて、周囲の全てを自分の側に取り込まねばならない、と。それからレースをやって私が変わったのは、嫌なことや嫌いな人と向き合っても、それで死ぬわけではないという気持ちが芽生えたことでした。シューマッハの言葉とレースの世界での経験のおかげで、いつの間にか自分が大きく変わっていたんです。