世界最速の女性レーシングドライバーで、日産自動車の独立社外取締役も務めている井原慶子氏。大学在学中、レースクィーンとしてサーキットを訪れてモータースポーツに魅了されて一念発起し、レーサーになるためにフェラーリと参戦費用1000万円をバイトをかけもちして貯めたという。
ヨーロッパのモータースポーツという男ばかりの社会で、どのようにして壁を飛び越え続けてきたのか。「越境体験」を今まで住んできた様々な「家」とともに人生を振り返る。
※『こんな家に住んできた 17人の越境者たち』(稲泉連著)から転載
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33歳、レーサーとしての挫折
井原 今から12年前の2006年、私はイギリスのマーロウという町に住んでいました。
8年間にわたってレースの世界で闘い、1つの目標だった英国F3というカテゴリーに参戦していた私は、そのとき33歳になっていました。
2年目のシーズンを終えた冬のある日、リビングの窓から見た景色は決して忘れないでしょうね。そこには雪に覆われ、真っ白になったテムズ川の風景がありました。
「ああ、これはもう、日本に帰りなさいということなんだな……」
その風景は自分の目にはあまりにも厳しいものに映り、あたかもそう言われているような気持ちになったからです。
――これまで世界中のサーキットを転戦してきた井原慶子さんは、日本における女性レーサーの草分け的な存在だ。ル・マン24時間レースを含む世界最高峰のFIA世界耐久選手権(WEC)では、女性初の表彰台を獲得。女性ドライバーとして世界最高成績を収めた。だが、レースを始めたのは25歳と遅かったという。