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女性レーサーから日産の社外取締役に レースクィーンだった彼女はどう生きてきたのか

女性レーサーから日産の社外取締役に レースクィーンだった彼女はどう生きてきたのか

井原慶子――『こんな家に住んできた 17人の越境者たち』より

2019/02/17

世界各国を転戦し、夢のイギリスのF3へ

――フォーミュラ・ルノー参戦の翌年、井原さんはフランスF3にステップアップする。1年間を同国のチームで過ごした後、スポンサーの契約がなくなり、2年間はマレーシアを拠点にアジアのレースを転戦。2002年にはマカオGPで女性初の3位表彰台を獲得した。その成果が認められ、2005年にイギリス国際F3の名門「カーリンモータースポーツ」のシートを得た。

井原 イギリスのF3を走ることは私の夢でした。アイルトン・セナを筆頭に、F1で伝説と言われるドライバーのほとんどがイギリスF3の出身。日本では佐藤琢磨君もその1人でしたから。それだけに住む家にもこだわりました。選んだのはテムズ川の流れるマーロウという街。以前はビールの醸造所だった赤レンガ造りの川沿いのマンションです。

マーロウの町並み ©iStock.com

 いままで住んだ中でいちばん素晴らしい家でしたね。マーロウはBest Kept Villageと呼ばれ、イギリスで最も美しい村とされているんです。川沿いの小路はジョギングに最適ですし、川ではボートも漕げてトレーニングの環境も抜群です。部屋は3階の角部屋の2LDKで、リビングからはテムズ川と橋と森が一望できました。川を挟んだはす向かいには、エリザベス女王も訪れたホテル「マクドナルド・コンプリート・アングラー」が見え、川面では白鳥が優雅に羽ばたいている。

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 テムズを眺められる窓、イギリス調の家具、ガレージにはチームから借りたアルファロメオ……。こんなに美しい部屋に住める機会は一生のうちに1度だと思い、家賃は40万円くらいしましたが、思い切って借りたんです。

©市川興一

 ただ、マーロウに暮らした期間は、レーサーとしては厳しいものになりました。当時、私は体を壊してしまい、最後の頃は38度の熱を毎日出している有様だったからです。

過労とプレッシャーで心身が疲弊

 25歳でレースを始めた私は、人の5倍、10倍の速さで物事を吸収しようとしてきました。例えばフランスF3に参戦していた時は、トレーニングのためにサン・ジェルマンの森の中にある「スポーツ科学研究所」の寮に住み、朝は20キロ以上のジョギング、その後に100キロのサイクリング、プールと筋トレを毎日続けていたくらいです。それくらいやらないと、強烈なGのかかるF3のマシンを乗りこなすことができないからです。その過労とレースで結果を出さなければならないプレッシャーで、自律神経がおかしくなってしまったんですね。病院で強い抗生物質をもらっても効かず、肌には斑点ができて目も真っ黄色。心身ともにレースを続けることが難しくなっていきました。

 でも、あの冬の雪の日、マーロウを去ろうと決めたときは、それでもまだ現状を受け入れられずにいました。

 そんな私が気持ちの区切りをつけられたのは、ひとえに今の主人のおかげなんです。

レースの世界に区切りをつけ、結婚

 京都の大学の大学院生だった彼と出会ったのはその2年前。最後の年には3週間に1度くらい、取り組んでいる博士論文の合間にマーロウへ来て看病してくれました。彼は日本に帰ってから「結婚しよう」と言ってくれた。それがレースの世界に区切りをつけるきっかけになったんです。

――2008年に結婚した井原さんは、夫の就職を機に愛知県春日井市に暮らし始める。同年、自宅マンションの一室で子供向けの英会話教室を始めた。2012年にはWECにガルフレーシングから参戦。ル・マン24時間レースを走るなど、レース活動も再開した。近年は自動車業界で働く女性の育成にも力を入れる。

井原 日本に戻ったときは、これでもう自分はレースを2度とすることはないだろう、と考えていました。とにかく体を休めようと思い、毎日、家でごろごろしていましたね。

 正直に言って情けない気持ちで一杯でしたが、そのとき何をすれば自分が世の中に貢献できるかと考えて、地域の子供たちに英語を教えることにしたんです。ちょうどマンションの6畳間が空いていたし、体調は思わしくないけれど、1週間に1度か2度であればできるだろう、と。

 最初の頃は子供たちのエネルギーに圧倒され、このままではパワーを吸い取られて死ぬと思いました(笑)。でも、慣れるとその時間が本当に大事なものになっていったんです。後にレースに復帰したのも、子供たちから力をもらい、体調の回復とともに気力が回復してきたからでした。

 いま、私はレーサーを続けながら、教育や自動車業界への女性進出に貢献できる活動を積極的に行なっています。思えば19年間、レースのために約70カ国を渡り歩いたことは、すごく稀有な体験だと思います。だからこそ、自分には世の中に伝えられる何かがある。その思いが大きなやりがいに繋がっているんです。