子供の頃からフジテレビの番組が大好きだったヒャダインさん。けれど、いま、フジテレビの状況は厳しいものになっている。3回にわたり話を伺った最終回は、そんなフジテレビについての愛あるからこその率直な思い。そしてテレビの未来について話を聞きました。
――2016年、テレビで特に印象的だったことはなんですか?
まず一つは『お笑い謝肉祭』(※「『裸になれば笑いがとれる』という低俗な発想が許しがたい」などというクレームを受け、BPOの審議対象となった)。内容はどうしようもなかったし、吉村(崇)さんが全裸でっていうのはありましたけど、あれを目くじら立てる時代になったんだと思いました。それは時代の変遷だから、ぼくはいいも悪いも思わない。逆にこれを引きずっちゃいけないと思います。
『謝肉祭』はTBSですけど、あれが批判された要因の一つとしては、もしかしたら(司会の)石橋貴明さんという存在が大きかったかなと思うんです。石橋さんって言ってみれば、80年代のやんちゃだった頃のフジテレビの擬人化だと世間に捉えられていると思うんですよ。「80’sの貴明」、「90’sの岡村(隆史)」という擬人化。
――フジテレビの擬人化!
それでああいう過激な表現をした時に「反フジ」の人たちと同じクラスタの人が、もしかしたら攻撃したんじゃないかなという気がするんですよね。なので、“フジ的なモノ”が本当にダメな世の中になったんだなと。
同じ吉村さんに関連した話では、2015年のフジテレビの『FNS27時間テレビ』で吉村さんの車をボコボコにしました。けど、全然面白くなかったんですよね(苦笑)。昔だったら面白かったんでしょうけど、それって、たけしさんたちがやっていた面白さ、成功体験をトレースしているだけ。あの年の『27時間テレビ』って、ぼくは「フジテレビ的なモノのお葬式」だったと思ってたんです。完全に想像ですが、旧体制の上の人が「おれらがやっていた頃は本当に面白かった。おれらがやっていたことと同じことすればいいんだよ!」と、若い人たちに言って、若い人たちも「わかりました。同じことをやればいいんでしょ」と、ブチギレ気味に同じことをやったみたいな印象だったんですよ。要するに昔ながらの人たちにそれで赤っ恥をかかせることができたという。「言ったでしょ、あなたたちが、20年前にやって成功していた体験というのは、いまトレースしたところで誰にも受け入れられないんですよ」という証明になった。だからぼくは「お葬式」だと思っていたんですけど、全然死んでなかった(笑)。ゾンビみたいに生きてる。
『イッテQ!』『有吉の壁』が破天荒アウトプットの“その次”を見せた
――過激なものをやるのがダメなわけではなくて、そのまま昔のやり方でやるのがダメなんですよね?
同じ過激なことでも、前時代的なアプローチで笑いを取るというDNAをまんまやったらダメだけど、昇華させたのが『(世界の果てまで)イッテQ!』だと思うんです。あれも(出演者を)ヒドい目に遭わせるじゃないですか。あと『有吉の壁』とか。ああいうふうに“その次”というものを見せる番組も去年あったから、芸人の破天荒アウトプットはそっちの方向で行けばいいじゃないかと気づきましたね。
――実際、コンプライアンス云々言われても、やればできそうな気はしますよね。『クレイジージャーニー』とか『水曜日のダウンタウン』とかはできています。
だから大義名分が必要なんだろうなという感じがするんですよね。『クレイジージャーニー』も、牛の血のゲロ吐いてるのを映しても、町でうんこしている少女を映しても別にドキュメンタリーだから、ということでやっている部分もあるし、『水曜日のダウンタウン』がズルいのは時々“いいこと”をやるんですよね(笑)。ギャラクシー賞とかを取っちゃうようなこともするので。
――あの番組、高齢者を扱うとハズレないですよね。感動的だったりする。
そうなんですよね。そこら辺の彼らのやり方がぼくは正解だと思うんですよ。昔のアナーキーさをまんまトレースするんじゃなくて、ちゃんと噛み砕いて自分の方法で時代に合わせた方法で、だからと言ってそれは妥協ではなくて、いまだからこそのことをやる。
『(月曜から)夜ふかし』とか『(1億人の大質問!?)笑ってコラえて!』が素晴らしいのは、限られた予算の中で、どうやって面白いコンテンツを作るか考え抜いているところだと思うんです。出演料がかからない素人を上手いこと引っ張り出して面白いことを抽出して、あとはこっちの編集の腕でなんとかする。だからある意味、編集している人やディレクターとかも“演者”なんですよね。お金がないなら、ないなりにやってやろうという気概を感じるし、時代に寄り添っていると思います。