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90年前の日本社会は、オペラ歌手・藤原義江の不倫へのバッシングに沸いた

なぜ人々は上流社会のスキャンダルに熱中したのか #2

2019/10/24
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 あきの希望で離婚調停に入り、1957年正式に離婚成立。あきはNHK会長を務めた古垣鉄郎の紹介で資生堂の美容部長となり、ビジネスウーマンの仲間入り。さらには同じつながりでNHKの人気クイズ番組「私の秘密」の解答者として登場し、お茶の間の人気を集めた。美容やおしゃれ、服飾などについて講演や出版も。

 そして1962年、参院選全国区に出馬し、テレビでの知名度を武器に116万票を得てトップ当選。「タレント議員」に。しかし、長年病気に苦しみ、最後はリンパ肉腫のため、1期目の途中の1967年8月、69歳で死去した。中上川家とは復縁していたため、死亡記事では朝日は「中上川アキ」、読売は「藤原あき=本名中上川アキ」と表記した。「藤原義江氏とのロマンスで話題をまいた」と読売は簡単に書いたが、朝日は触れていない。

晩年の藤原あき ©文藝春秋

これほどまで愛されていたのかと

 あきには自伝はなく、義江との関係を詳しく語ることはなかった。一方、義江はあきの死後出版した「我があき子抄」でこう語っている。

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「僕に一番愛されている女性であるという自信を、急速に喪失してしまったのはなぜだろう。砂原と対比して、こと歌い手としての砂原を除けば、教養といい、品性といい、さらに容姿の点においても、一歩も譲ることなく抜きんでていたあき子が、なぜ、自分で身をひくような決意をあえてしたのだろうか」

 やや男の身勝手を感じさせる談話だが、あとがきに書いたことは違う。

「あき子の残した詩を読み、かつて毎日のように旅先でもらった手紙の数々を読み返して、泣き虫の僕は何度か涙を流しました。正直なところ、あれを読み、これを読み返しているうちに、僕は、あき子にこれほどまで愛されていたのかと思って、なんともやりきれない思いに胸を締め付けられ、日々涙を新たにしては悲しみに打ちひしがれ、ある時は襟を正しました」

©文藝春秋

「いまとなっては、もう取り返しのつかないことですが、ここに収録したあき子の手紙なり歌なりを、当時の僕が、聖書やトルストイの小説を読むような、斜め読みをせず、もっと心込めて真剣に読んでいたら、二人の人生はずっと変わっていたかもしれないと思います」

 激しい恋に落ちた二人だが、お互いに真の理解には達しなかったということか。松本清張監修「明治百年100大事件」は「恋愛・心中」の項で二人を取り上げ、あきのことを「時代の先行馬」と表現している。「彼女は、その時代時代の中で、絶えず一歩先んじていた。その時代の最先端を行く人を愛し、現象を愛し、物を愛した。いつの時代にも“モダン女性”だった」。義江を愛したのも、彼が日本のクラシックの歌手の最先端だったからだろうか。