文春オンライン
富野由悠季が明かした宮崎駿作品への“違和感” 巨大ロボット物アニメを生業にしてきた男が創作についての“持論”を語る

富野由悠季が明かした宮崎駿作品への“違和感” 巨大ロボット物アニメを生業にしてきた男が創作についての“持論”を語る

『アニメを作ることを舐めてはいけない -「G-レコ」で考えた事-』より #2

2021/10/07
note

真にドラマを含む作品とは

 メカが好きなだけという言い方を、ガン・アクションや格闘技が好きにおきかえてもいいのだが、それだけでは、カンフー映画やマカロニ・ウェスタンのジャンルやポルノ映画で終わるだろう。

 むろん、女性の裸体を描きながらも、現在社会への反逆のシンボルである、革命のあり方はかようにあるべきだ、と叫ぶことはできる。(60年代にはそのような映画があったらしい)が、それはアジテーションであって、ドラマになっているのかという話とは別のことなのだ。

 負け組みの雄叫びではドラマにならない。これもまた鉄則である。ドラマはプロパガンダ(宣撫=政治的宣伝)でない。固有のものなのである。

ADVERTISEMENT

 ではどういうものなのか?

 この答えはうかつに書けないので、古今東西で名作と言われているタイトルのもの、という言い方をしておく。

 事実、悔しいのだが、若いときに読んだり見たりしたものではよく分からなかった作品でも、歳を経って再読したり、見直して感銘を受けたりする作品はいくらでもあるものだ。そういったものだ、という書き方をしておく。

 それが、マンガであろうがアニメであろうが関係はない。少なくとも30年ぐらいの間、読み直すか見直すかした作品は、絵画であろうともドラマを含んでいるのだから、そういうものから学べるエッセンスはある。

アイーダのように、学びは必要

 そして、ドラマを書けるようになりたいと志すなら、若いときから、いい作品に接しておくことに限るというアドバイスが順当なのだが、これは鉄則ではない。

 若年ではろくに小説も読まなければ、映画さえも見たことがない、SNSってなに?という人でも、創作をすることができる人がいるからだ。

 つまり、才能がある人というのは、学習をする必要がないらしいのだ。が、才能がある人というのは、通常の人が必要とする学習をしないのに、生きてきた経過のなかで学習をしていて、自分に関係のない外界の事々を想像する才能をもっていたりする。

 それにちかい人を何人か知っている。そういう人は、もう任せっきりにするしかなくて、アドバイスする必要はない。本当に自分の人生の範囲での体験から、ひょっとしたら世界のすべてを洞察しているのではないか、という力を感じさせてくれていたりするのだから、今時いう“セカイ系”というファンタジーではなく、リアリズムの延長で想像できる才能をもっている人、それはまちがいなくいる。

 しかし、たいていの人はそうではないので、ここに記してあるような時系列から想像をして、自分の能力を鍛えていって欲しい。

 訓練で多少は克服できて、仕事には対応できるものは身につけられる。何度でもいう。アイーダのように、学びは必要なのだ。

©創通・サンライズ

【前編を読む】富野由悠季が『G-レコ』に込めた最大の“企画テーマ”は… ユーチューバーとゲーム世代に“あえて”伝えたかった思いとは

富野由悠季が明かした宮崎駿作品への“違和感” 巨大ロボット物アニメを生業にしてきた男が創作についての“持論”を語る

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー