自分が企画・演出をした作品について書くことはやってはいけない。人気があればいろいろな方が解説をしてくださるのだが、そのようなことがなかった『Gのレコンギスタ』だから、自分で太鼓を叩くことにした――。
そんな書き出しとともに、富野由悠季氏がアニメ制作への考えを赤裸々に綴った一冊が『アニメを作ることを舐めてはいけない -「G-レコ」で考えた事-』(KADOKAWA)だ。ここでは同書の一部を抜粋し、79歳で巨大ロボット物の演出をする巨匠・富野由悠季氏の作品制作への思いを明らかにする。(全2回の2回目/前編を読む)
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アニメの実写的演出と、実写のアニメ的演出
ぼくの場合は、テレビアニメを映画館で、という意識があったから進化させることしか考えていなかった。この場合の“進化”は、子供向けを大人でも見られるようにするといった意味だ。しかし、これを突き詰めると実写そのものを追求するということになる。
しかし、手描きの絵が実写になれるわけがなく、物語の構造が多少実写的になるていどのことで、進化と呼べるようなものではない。しかし、媒体としては市民権を得たのだから、それで良しとする。そのような気持ちになったのは、本作の製作過程でアニメ絵に得心がいったからだ。
逆に、実写の世界ではデジタル技術の採用が簡便になっていったおかげで、実写の演出手法が、アニメ的になっていくという気配が現れ始めて、かならずしも実写が実写の体裁を堅持していないというケースが散見するようになった。
映画演劇としてこなれた使い方をしていれば問題はないのだが、そうではないケースが多出するようになっている傾向は、気持ちが良いものではない。映画演出論を再考しなければならない時代になったのかも知れない。
デジタル・アニメの新境地
逆に、アニメではデジタル技術を駆使しながらも作画的に極度に簡略化して、制作費を徹底的に安く上げようとする作品群も日常のものになっている。
幼児向けの作品群である。
ことに簡略化したストーリーとシンボル化したキャラクタと動かし方。それはすでに日常的な業務としてこなされていて、商品として流通している。大資本下の作品にそれは顕著だ。
あのシンプルで誇張した動き! 幼児たちはそれらの作品を、目を凝らして見ているのだ。そこにアニメの新境地を見る。手法のあり方、アニメとしての真骨頂がある。
それらの技術は、進化に対して、“退行”しているという見方もあるのだが、そうだろうか?
『G-レコ』という作品に出会えたことで、ぼくにとっては、それらの作品群を幼児的でくだらない作品と査定することができなくなった。