無謀な兵器をつくらされた父の体験
中学生頃までは、零戦の設計者みずからの経験からの開発談やら、零戦以外の機体の開発苦心談といったものは航空専門誌にあったので、当たり前に読んでいて、それほど不思議に感じたことはなかった。大学生になるぐらいまでは、その種の書き物から、技術者といった専門職の方々が、戦争に使われる兵器の存在問題といったものに言及することはないということには気づかなかった。
そして、なぜ戦争に使われる道具という問題に触れないのかという点に気づけば、多少、気持ちが悪いものになる。
というのは、ぼくの父が軍需関係の仕事をしていたこともあって、風船爆弾の気球を製造する生地の開発をさせられたとか、陸軍の戦闘機乗りのために、高空での耐圧服といったものの開発、さらに、上陸するアメリカ軍の上陸用舟艇を攻撃するために、海岸淵に潜水して待ち伏せをする兵士のための空気袋を作らされた、という話を知っていたからだ。
「絹地にこんにゃくを塗って水素をためる気球を作らされた。(父の工場は、ゴムの代用品の皮膜作りの開発で、生産ラインの仕事ではなかった)終戦間際になって、パイロットの身を守る耐圧服なんかゴム屋にできるわけがない。空気袋なんて、ただのゴムの袋なんだよ。それに貯めた空気だけで、何分間、波打ち際に潜っていられるんだ」と軍部の無茶な要求に口を尖らせて教えてくれた。
風船爆弾はいちおうは兵器と言われるものであろう。そのようなものの素材開発であれば、兵器の製造に加担したことになるのだろうが、与圧服はなかに人が入って着られる状態のものまでは作れたようだった。
ゴムの空気袋は簡単なプランのラフな図面が残っていたのだが、本当にただのゴム袋でシュノーケル装置がついているものではなかった。
それについては、十数個の空気袋を作って、少年兵の一隊が会社に取りに来てそれを持ってどこかに出て行ったのを見送ったという。「どう考えても実際にあれを口にくわえて、海に潜ったと思えないけれどね」とは、終戦の当日のことであったからだ。