生まれてすぐ山奥の寺に兄とともに預けられ、両親は死んだと伝えられていた滝川沙織さん(53歳・仮名)。小学校を卒業する頃に父親が突然現れ、父、父の再婚相手、兄との新しい生活が始まったという。それは、真の地獄の始まりでもあった。
ここでは、ノンフィクション『母と娘。それでも生きることにした』(集英社インターナショナル)より一部を抜粋して紹介。愛情のない自分たちの関係を「劇団家族」と呼ぶ沙織さんが語る、継母から受けた酷い仕打ちの数々とは――。(全4回の1回目/続きを読む)
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「お母さん」と呼ぶのも嫌になった
「なんか、この子、嫌なのよー。一緒に出かけるのも恥ずかしいわ」
継母は出かけた先の店員さんや、レストランの人たちに決まって、私のことをこう言ってはなじりました。私にわざわざ恥をかかせるようなことを、嬉々としてする人でした。ですから、私にとっては継母と出かけることはいつも苦痛でしかありませんでした。
「なんか、あんたはセンス、悪いわー。なんか、ピント、ズレてるわー」
ずっと、そればかりを言われるので、私はそうなんだと思いました。お寺で育ったから空気を読むとか、そういうことを学びにくい環境だったから、そうなのだと。継母はそうやって、人の前で私を罵ることが大好きでした。
この街に来た当初、私は電車の乗り方も知りませんでした。改札も見たことがなく、切符を入れたら、それを取らないといけないことも知りません。継母に「切符は?」と聞かれたら、「ない」と答えるしかありません。そこでまた、大きな声で怒られました。
「ほんと、何にも知らないんだから! なんで、聞かないのよ!」
怒鳴られましたが、何を聞いていいかもわからないので、聞けるわけがないのです。
私と一緒に出かけるといっても、いつも継母は振り返ることなく、一人でスタスタ歩いていくので、私はよく迷子になりました。迷子になった時も、継母はすごく怒りました。
「なんで、迷子になりそうな時に、私を呼ばないのよ!」
その頃はもう、「お母さん」と呼ぶのも嫌になっていました。
