「よく、頑張ったね」

 中学の林間学校で、麦わら帽子が必要でした。継母と一緒に買いに行って、「これがいい」って私が言ったのに、継母はお花がいっぱいついたフリフリの帽子にしろと迫るのです。でも、私はその帽子はどうしても嫌でした。

「よその店を覗いてくるから、戻ってくるまでに決めときなさいよ」

 その場には、店員さんもずっとついていてくれました。継母が戻ってきて、圧のある声で「どっちにするの?」と迫りましたが、私は欲しい帽子を買ってもらいました。

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「よく、頑張ったね」

 店員さんがそう言ってくれたのを、今も忘れません。もちろん、その後、継母はプリプリ怒って、私が迷子になろうが、一人でスタスタと行ってしまいました。

 私はいつも、一人でした。

 劇団家族は週末、よせばいいのに、家族揃って出かけるのがいつものことでした。メンバーは私たち4人と、継母の弟一家と決まっていました。父親と継母は甥っ子と姪っ子ばかりを可愛がりました。私と兄は何も買ってもらえませんでしたが、その子たちにはなんでも買い与えていました。

 10歳以上、年の離れた継母の姪と私は比べられ、蔑まれました。家にはその甥と姪の写真ばかりで、私が写っているものは一枚もありません。当時は気づかなかったのですが、明らかに差別を受けていたと、今ならはっきりとわかります。劇団家族の構成員ではありましたが、所詮、両親役の人たちにとって私は「家族」でもなかったわけです。大勢で出かけていても私はいつも一人だと思っていましたし、家にいる時でも一人でした。

 学校に行っている時は気が楽でしたが、放課後、友達と遊ぶことが禁じられていたので、友達と親しくなるのは難しいことでした。継母がやっているカメラ屋の前で、バッタリ会った友達と話していたら、店の中から「何、やってんのよー」って継母が大声で怒鳴るものだから、「沙織の母親はめちゃくちゃ怖い」という噂が広まり、誰も私を見かけても声をかけなくなりました。私が誰かと話しているだけで、なぜ、怒られないといけないのか。でも、それが継母のやり方でした。

 継母に多少、意地悪なところがあるとはいえ、まだ「普通の人」だったら、何とかしのげたのかもしれません。継母は突然、キーッと爆発する人でした。何の前触れもなく、理性の制御が一気に吹き飛び、手のつけられないような状態になるのです。こちらも父親同様、どこに地雷があるかわかりません。