平城京・平安京の時代から続く「里子村」で育った最後の里子だった人物がいる。生まれてすぐから小学校卒業まで「里子」としてお寺で共同生活をした。彼女の証言からは、昭和50年代の話とはとても思えない過酷な生活が浮き彫りにされる。ノンフィクション作家・黒川祥子さんが話を聞く――。

※本稿は、黒川祥子『母と娘。それでも生きることにした』(集英社インターナショナル)の一部を再編集したものです。

写真=iStock.com/MoMorad ※写真はイメージです - 写真=iStock.com/MoMorad

ずっと震えていた「里子村」での共同生活

里子だけ、毎朝、お寺の本堂から縁側まで雑巾掛けをしなければいけなくて、朝早く起きて、真冬でも冷たい水で、手がかじかんで震えながら雑巾掛けをするのです。もちろん、雑巾掛けは里子だけの仕事で、お寺の家の子どもは暖かい布団でぐっすり眠っています。

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トイレは外にあって、穴を掘っただけのもので、ドアもなくて、逆側から見たら丸見えでした。便器もないので、もう、落っこちそうで怖くて……。大をする時は穴とは反対を向いてやるんですけど、落ちそうで怖いから、手前にウンコが落ちちゃうんです。排泄物が、穴まで落ちていかない。お寺の家族の人は家の中の水洗トイレを使っているって聞いたけど、それを見たこともなかった。お寺の人たちが暮らす場所には、入ったらダメって言われていたから。

実際に私の面倒を見てくれたのは、「おばあちゃん」ではなくて、里子の上のお兄ちゃんたちでした。多分、赤ちゃんの時からそうだったと思うので、お兄ちゃんたちは小学生とかで、赤ちゃんの面倒を見ていたのです。お兄ちゃんたちは中学を出ると近所で働いていたけど、ある日突然、村から蒸発していって、気がついたらみんないなくなっていました。

いつも空腹でどうしようもなくて、だからお店からくすねたり、友達の家から持ってきたり、ゴミ箱を漁ったりするしかありませんでした。他に、どうしようもないから。お店で見つかって、「また、お寺のもらわれっ子か」って怒られて。だけど、どんなに「ください」ってお店の人にお願いしても、絶対に食べものはもらえませんでした。