無邪気な子ども時代だったとは思います。もちろん、不眠は続いていたし、生きる意味がわからない日々に変わりはないのですが、片道40分の通学路も友達と一緒なら笑ってばかりだし、周りの大人たちもみんな「お寺のもらわれっ子」ってわかっているけど、私に優しくしてくれました。
実は私、「おばあちゃん」のことが大好きでした。お母さん代わりだから、すごく懐いていて。でも、今、思えば、どうだったんだろうって思います。実の祖母は一切、会いにはこなかったけれど、生活費だけは送っていたようでした。
「おばあちゃん」は、里子がもたらすお金に、すごい執着があった人のように思うんです。里子のなかに、お父さんが呉服屋で、愛人との間にできた子がいたのですが、毎年、お父さんはその子のために着物を送ってくるのです。だけど、「おばあちゃん」の孫がそれを着ていました。その子の着物なのに。中学を卒業すると、里子はみんな働くのですが、その給料を「おばあちゃん」は全部、自分によこせと渡させていたみたい。だからみんな、ある日突然、里子村を出て行ったきり、誰一人、戻ってきませんでした。私の面倒を見てくれていたお兄ちゃんたちは、電気屋さんとかで働いていたけど、みんないなくなりました。
大人になった「被虐待児」と虐待の連鎖
私が沙織さんと会ったのは、児童養護施設出身者の当事者活動を行う団体に、「大人になった元被虐待児に会いたい」と連絡を取ったことがきっかけだった。その団体から私に紹介されたのが、沙織さんだった。沙織さんはその活動を支援し、時にイベントにも参加していた。
当時、私は、のちに『誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』としてまとめた本のための取材をしていた。虐待を受けた子どもなどを治療する、小児の心療内科病棟が閉鎖病棟であったことに衝撃を受け、虐待が一体、子どもにどのような影響を与え、どのような重い後遺症をもたらすのかを、主に里親家庭を中心に取材を進めていたのだ。