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「王権の流れとしては至極当然」小室眞子さんはなぜ“スケープゴート”になったのか?

文藝春秋ウェビナー「『象徴天皇制の行く末』を眞子さん“結婚会見”直後に議論する!」

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昭和天皇と戦争責任

 日本では明治天皇が偉大な天皇であると言われていて、大正天皇は脳膜炎を患ったということで、15年しか治世がなかった。しかも後半は昭和天皇が摂政をやるということでほとんど統治機能はなかった。大正天皇が開院式の際に詔勅を読み上げた後、くるくるってそれを丸めて、とんとんとやった。丸まっているかなと、望遠鏡のように見ていたと。その所作から「大正天皇は病気なのではないか」という憶測も広がった。これも明治天皇が偉大であるということで、プリンスが“生贄”になっていたとも言えるのかもしれない。

 あるいは昭和天皇は、戦争に負けた後、各地行幸しますよね。「あ、そう」「あ、そう」って繰り返し言ったけど、その甲高い声で威厳と道化を一人で併せ持っていた側面があるのかもしれない。もう少し説明すると、やっぱり戦争責任のわだかまりは国民にあったと思う。300万人死んでますから。1950年代の終わりにテレビが少しずつ普及していくと、民間からお嫁さんをもらうという話が出てきます。正田美智子さんですね。すごくきれいな人で、軽井沢でテニスで恋に落ちたと。

2011年12月、御所で国内の訪問先にピンをつけられる天皇皇后両陛下 宮内庁提供

 それでも当時は、「平民の娘」というさげすんだ言い方が一部でされたんですよね。でもものすごく人気でした。テレビも普及して、パレードもやる。これは戦争責任のある天皇家と、国民の再契約だったとも言えるのではないか。そして皇太子の誕生日には、東條英機が処刑されている。そういうことで彼はずっと十字架として背負っていった。皇太子時代から東南アジアとか沖縄とか、慰霊の旅に行かれてますね。美智子殿下と沖縄に行って火炎瓶を投げられてといったこともありました。サイパンも行くし、いろんなところに行って慰霊の旅を続けた。

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 平成の天皇の役割は、昭和天皇の戦争責任をつぐなっていくということ。それで慰霊の旅もしたし、国民目線で、被災地でひざまずいて話もする。昭和天皇は立ったまま「あっそう」と言っていたけど、平成の天皇はひざまずいて話をする。そういう形で国民との契約の形を変えていって、生き延びていったのではないか。

2015年4月9日、アンガウル島に向かって拝礼される天皇皇后両陛下(パラオ共和国・ペリリュー島) ©JMPA

 かように王そのもののスケープゴートが変わっていくんですよね。入れ替わり立ち代わり。あとはご存じのように、雅子さまはなかなか子供に恵まれない。そんなプレッシャーのなかで彼女は適応障害になってしまう。入れ代わり立ち代わり、スケープゴートが現れる。王権は膨大なエネルギーを持っているので、国民が熱狂しながら消費するという構造がある。

 そして今回の眞子さんのお話ですね。小室圭さんもいろんな物語になりやすいものを引きずっているから、バッシングの対象になった。ただそれは王権の流れとしては至極当然であるとも言えます。放浪のプリンセスの物語といいますか。なぜ王がいて、カオスを引き受けるか。その部分を背負って、王という秩序と放浪のプリンスがカオスを流し去る。文化人類学的には、そういう構造がある。

 猪瀬直樹さんと先崎彰容さんによる文藝春秋ウェビナーでの対談動画「『象徴天皇制の行く末』を眞子さん“結婚会見”直後に議論する!――『ミカドの肖像』から35年、皇室はどこで変わったのか?」、および対談録全文は、「文藝春秋 電子版」でお楽しみいただけます。

「王権の流れとしては至極当然」小室眞子さんはなぜ“スケープゴート”になったのか?

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