「高校野球の監督、やりてえなあ」
国内にプロ野球チームの数は12。一度監督に就いた者がその座を退く際、GMや別チームの監督などの要職に横滑りしない場合は、一旦、プロの世界から抜ける。
たとえばコーチに就いたり、社会人や高校野球の監督になることは、「プロの監督」からの“格落ち”だと感じるのかもしれない。
しかし、野村は意に介さなかった。プロが上で学生が下とか、そんな固定観念がなかった。阪神の監督を退任した後、社会人野球のシダックスの監督就任要請を快諾した。プロ、アマ、社会人、学生。どのジャンルの野球も愛し、敬意と好奇心を持って挑んだ。
「だって、親父の最期のぼやきは、『高校野球の監督、やりてえなあ』だったんだから。監督になって甲子園、行きたかったんじゃないかな」と克則は誇らしそうに笑った。
どこの現場でもいい。どんな肩書でもいい。野球がやりたい。また現場に立ちたい。息子にぼやいた10日後、野村は天国へ旅立った――。
「墓は東京がいい」「小さい墓がいい」
後期高齢者と呼ばれるようになってからも、野村夫妻は老後の準備をしなかった。墓も用意していなかった。
「死んだ後のことなんて知らないわよ! ケセラセラで生きるのよ!」が妻・沙知代の口癖だった。彼女が亡くなったとき、克則は父に提案した。京都に野村の両親が眠る墓がある。その敷地に新たな墓を作ろうか、と。
野村は拒否した。
「墓は東京に作りたいんや。関西から出てきて、マミーと一緒に東京で頑張ってきたんだから。墓は東京がいい」
もうひとつ注文を出した。
「小さい墓がいい」
いま野村が妻とともに眠る墓はつつましい。2021年1月、一周忌の法要に合わせて、コロナ禍で延期していた納骨を行った。墓の前に立った私は、こじんまりとした墓に驚いた。