昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

〈野村克也監督没後2年〉「墓は東京に作りたいんや。マミーと一緒に東京で頑張ってきたんだから」 克則が語った親父の最期の‟ぼやき”

野村克則さんインタビュー#1

2022/03/10

source : ノンフィクション出版

genre : エンタメ, 働き方, スポーツ

 名将、野村克也が亡くなって2年――。2022年2月11日、三回忌を迎えた。父と同じく捕手として球界入りし、父が監督を務めるヤクルトスワローズ、阪神タイガース、東北楽天イーグルスでプレーした息子の克則は、今季から阪神の二軍バッテリーコーチに就いた。

 彼にとって野村克也とはどんな存在だったのか? 

 晩年の野村監督の本音を聞き続け、『遺言 野村克也が最期の1年に語ったこと』を著した飯田絵美氏は、克則や妻の有紀子とも親交が深い。そんな彼女が克則に、これまであまり語らなかった父への想いを訊いた――。(全2回の1回目。後編を読む)

どこにいても「真っ向勝負」

 克則が最も心に刺さった“親父の言葉”は、楽天で現役選手を引退し、コーチ就任が発表された後に聞かされたものだという。

「そのオフ、自宅にいるときに親父に言われたんです。『教えるのに必要なのは、根気と情熱と愛情。指導者はそれがすべてだ。それがないと、コーチはできねえぞ。特に根気が必要や』。それが一番、心にありますね」

 指導者として、選手と真っ向勝負する――。その姿勢を野村はどこにいても貫いた。ヤクルト監督に就任する前、野村は、妻・沙知代がオーナーを務める少年野球のチーム、港東ムースで子どもたちに野球を教えていた。克則もそこに所属していた。

右から野村克也監督、幼少期の克則さん、沙知代さん

「“親父との思い出”と聞かれてパッと思い出すのは、中学3年の夏の全国大会で負けた時。2戦目、ベスト8入りを賭けて仙台のチームと対戦したんです」

 港東ムースは右腕のエースを擁し、初戦を勝ち抜いた。そして2戦目、2番手のサウスポー投手が登板。試合終盤までリードしていた。

「『このまま勝てば、全国大会でベスト8だ』。そんな気持ちが浮かんだとき、相手の4番打者に逆転3ランを打たれた。逆転負け……。負けた後、選手だけでなく父兄の方も、みんなが神宮第二球場のロッカー前に集まりました。大勢の人が集まった目の前で、突然、監督が泣き始めたんです。悔し涙ですよね。

『ワシの采配ミスや。申し訳ない!』。そう言って、選手や父兄に頭を下げていました。親父の行動には、驚きました。他のみんなも驚いて言葉が出てこなかった。難しいんですよ、トーナメントは……。『このまま勝てれば、次の試合に向けてエースを温存できる。いや、そろそろ代えた方がいいか』。親父はずっと考えていたんだと思います。でも交代を告げず、サウスポー投手を引っ張った。そうしたら打たれた……。

西武時代の野村監督と克則さん

 親父が泣いているわけですよ。みんなの前で、頭を下げて。選手みんなと一緒になって、ワンワン泣いていた。あの光景を、いまもはっきり覚えています」