「野村克也をしのぶ会」。コロナ禍のため当初予定より2年近くも遅れながら、ようやく実施が叶った。
野村が選手、監督として所属したプロ野球6球団が発起人に連なる、という前代未聞の催しの舞台裏に、『遺言 野村克也が最期の1年に語ったこと』(文藝春秋)の著者でジャーナリストの飯田絵美が迫った。(全3回。#2,#3を読む)
約2年遅れの別れの儀式
12月11日に神宮球場で開催された「野村克也をしのぶ会」は、プロ6球団が発起人、舞台は野球場、つまり屋内ではなく屋外で実施と、すべてが規格外で異例だった。
受付は午前10時開始。私は午前9時41分に到着した。ヤクルト球団の原田要取締役の姿が球場の正面入り口にあった。ヤクルト監督時代、チームマネージャーとして野村を支えた原田は忙しそうに関係者に指示を出していた。
挨拶をすると、少し顔をほころばせて「おう、来たか。また、あとでゆっくりな」と右手を挙げた。
2019年、ヤクルト球団設立50周年イベントで、教え子に守られながら笑顔で打席に立った野村の姿は記憶に新しい。イベントに参加してくれるよう、野村に電話越しに頭を下げてお願いしたのは原田だった。あの歓声から2年以上の月日が経っていた。
神宮球場の正面入り口からやや三塁側に、シダックス野球部と東北楽天イーグルスで野村監督のマネージャーを務めた梅沢直充がたたずんでいた。手には幅25センチほどの黒い鞄を握っていた。
シダックス野球部のマネージャー時代、野村に突然、都内のブティックに連れて行かれた。マネージャー業務がやりやすいように、小物が入る皮革製品をオーダーした野村は、ネームタグに直筆サインをして贈ってくれたのだという。私も、30歳の記念にいただいた指輪とピアスをバッグの奥に入れていると打ち明けた。
そのとき、阪神タイガースの球団本部長である嶌村聡が現れた。彼は阪神、楽天で監督付き広報として、野村を支えた。
原田、嶌村、梅沢。
マネージャー、監督付き広報など役職名は違えど、名将を最も間近で支え守ってきた彼らが、列席者の誰よりも早く到着した。これは偶然ではない。彼らにとって野村は、厳しい上司であると同時に、弱さをさらけ出してくれる父でもあった。時間厳守というより、一刻も早く親父に会いたいという思いだったろう。