コロナ禍のため当初予定より2年近くも遅れながら、ようやく実施が叶った「野村克也をしのぶ会」。
野村が選手、監督として所属したプロ野球6球団が発起人に連なる、という前代未聞の追悼の会の舞台裏に、『遺言 野村克也が最期の1年に語ったこと』(文藝春秋)の著者で、20年以上にわたり野村と交流したジャーナリストの飯田絵美が迫った。(全3回。#1,#2を読む)
「父」のために奔走する
「野村克也をしのぶ会」は当初、亡くなった翌月である2020年3月末、都内の葬儀場で開催される予定で準備が進んでいた。しかし、日本全体がコロナ禍に巻き込まれ、開催を延期。
その年のオフ、12月頃の開催を計画したが、感染は沈静化せぬまま、秋までに計画は破棄された。
2度目の延期が決まった2020年11月、ヤクルト球団のファン感謝デーが行われた。私は克則の妻、有紀子とともに神宮球場へ足を運んだ。球団代表取締役社長でオーナー代行の衣笠剛を見つけると、有紀子はためらいつつ、勇気を出して駆け寄った。
野村克也をしのぶ会を開催したいという希望とともに、神宮球場で実施ができないか、検討してほしい旨を伝えた。それを機に、野村が所属したプロ6球団が合同で開催する、という形に発展した。
野村は生前、何度もぼやいた。
「ワシの葬式なんて誰が来るんやろ。誰も来ないやろ」
「日本代表監督になれなかったのは、人望がなかったから」
「ワシはもてない。男からも女からも」
楽天の監督だった頃、吐き捨てるように言われたとき、なんと声をかければいいか、言葉が見つからなかった。
「自分を好きなんて思ったことない。なんでこんな人間に育っちゃったのかと思う。オレは自分が大嫌い」
それは、組織のリーダーとして生きる悲しい覚悟だった。
だが、野村の自己分析は当たっていなかった。妻・沙知代を喪い、急速にしぼんでいく野村に、家族は寄り添った。その愛情の深さは、野村が亡くなってからも変わらない。
「監督や沙知代さんによくしてくれた方を集めて、この夏、故人の遺した着物や服、小物などを整理したんです。たくさんの着物や衣装が出てきて、それを着てみたり、部屋に飾ったり。思い出話に花が咲くいい時間でした」
有紀子のひらめきで、故人が遺した品をプロカメラマンに撮影してもらった。
「義父が愛した自宅の居間や庭で、服やネクタイ、時計などをプロのカメラマンに撮影してもらいました。これを冊子にして、しのぶ会に来てくださった方に会葬品としてお渡ししたい」
相談を受けた私は、野村の名言を選び、故人ゆかりの品&言葉をまとめた会葬品が完成した。封筒の表紙に【感謝】と野村の達筆でしたためられた封筒に入れ、野球ボール型のシールで封印した。
実はそのフォトブックには仕掛けがある。QRコードにアクセスすると、在りし日の野村の声でメッセージが聴こえるのだ。
受け継がれる使命感
しのぶ会の成功のために、もうひとつ大切な手作りの品が用意された。会場で流されるVTR映像である。70年近いプロ野球生活をたどるとなると、壮大なものを作る必要がある。野村のもとでのヤクルト、楽天を担当したフジテレビのディレクター・戌亥芳昭が制作を引き受けた。