かたや六大学野球のスターとして鳴り物入りで人気チームへ入団、かたや貧乏な家庭からのテスト生上がり。長嶋茂雄氏と野村克也氏は、現役時代から“向日葵と月見草”として比べられ続けた。そんなライバル同士が最後に交わした会話とはいったい……。

 元サンケイスポーツの記者で、ヤクルト時代に野村監督を担当していた飯田絵美氏による著書『遺言 野村克也が最期の1年に語ったこと』(文藝春秋)の一部を抜粋し、永遠のライバルの最後の邂逅を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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おまえ、頑張っているか? オレはまだ生きているぞ――長嶋との再会

 ヤクルトОB総会の翌日、国鉄(現ヤクルト)、巨人で通算400勝を達成した大投手で、前年の10月に死去した金田正一(かねだまさいち)のお別れの会が都内で開かれた。野村が選手としてロッテに1年間在籍したときの監督が金田だった。当時、野村は43歳、金田は45歳だった。

「ワシはやりにくい存在だったんだろう。選手が毎日、ワシのところに『教えてください』と来る。そのことを、ある選手が金田さんに伝えたようだ。『ノムさん、選手に教えるのは止めてよ』と金田さんから言われた。『そうは言っても、僕が頼んでいるわけじゃない。選手たちの方から聞きに来るんですよ』と返しても、『そこのところはうまくかわしてさ』と……。目障りだったんだろうな。

金田正一氏 ©文藝春秋

『こう言ったら生意気ですが、このチームは私がいなくなったら、弱くなりますよ』と、当時の重光武雄(しげみつたけお)オーナーに伝えた。その後、実際に言った通りの結果になった。数年後、ばったり重光オーナーと会ったとき、『野村君、君の言っていた通りになったよ』と言われた。あの一言を聞いたとき、胸がすっとした、と言ったらおかしいが、そう思ったね」

 野村はわずか1年でロッテを去った。だが、年を重ね、金田も同じ時代の盟友だ、という意識が強まっていた。だからこそ金田の死は、周囲が想像する以上に、野村に衝撃と悲しみをもたらした。

 前日に続き、息子に車椅子を押してもらい、野村は金田のお別れの会に出席した。往年のライバル、長嶋と王の姿もあった。カメラのスポットライトがまぶしく、報道陣や弔問客の視線を浴びながら、祭壇に花を手向けた。

 進路に沿って祭壇の裏手に回ると、金田の人生を紹介する数々の写真が展示されていた。そこには野村と付き添いの克則以外、誰もいなかった。ちょうどそのときだった。数メートル先に、長嶋の姿が見えた。驚いたことに、彼も車椅子に乗っていた。

長嶋茂雄氏 ©文藝春秋

 長嶋はスーパースターのイメージを損なわないよう、撮影や映像が残る“表”の場では、関係者に支えられながら自分の足で歩いていた。そして一仕事を終えると、車椅子に乗っていたのだった。