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「おう、ノムー!」

 姿を認めたのと同時に、長嶋の方から声をかけてきた。しかも愛称で……。その事実が嬉しくて、顔をほころばせた野村は、大きな声で応じた。

「おまえ、元気か?」

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 ライバル再会。

 一対一で向かい合う奇跡的な場面が生まれた。六大学野球のスターとして鳴り物入りで人気チームへ。もう一方は、貧乏な家庭からのテスト生上がり。同学年の二人は、“向日葵と月見草”だと比べられた。

 “太陽と月”は、お互いが監督になると、さらに距離が広がった。野村が新聞記者やテレビカメラの前で巨人や長嶋を挑発しても、長嶋は涼しい顔でやり過ごした。

 二人だけで言葉を交わすことはなく、当然、仲良く笑う機会も訪れなかった。

永遠のライバルとの永遠の別れ

 ともに80歳を超えた。

 それぞれの付き添い人も、二人の間に流れる柔らかい空気を感じ取った。すぐさま車椅子のハンドルを前に押した。二人の距離は30センチほどにまで近づいた。

 万感の思いが言葉となって、野村の口からあふれた。

野村克也氏 ©文藝春秋

「おまえ、頑張っているか? オレはまだ生きているぞ。まだまだ頑張るぞ! 元気で頑張ろうな!」

「おう、お互い、頑張ろう!」

 ともに頰がゆるみ、紅潮していた。感極まっていた。どちらからともなく、右手を差し出した。

 座っている車椅子から少し腰を浮かせると、相手の目を見ながら、しっかりと手を握りしめた。二人の目に涙がにじんでいた。付き添いの目にも光るものがあった。

「写真、撮っておけば良かった。でもね、携帯で撮るのは長嶋さんに対して失礼かな、と。さすがにね」

 克則はその光景を思い出し、目頭を押さえた。それが、永遠のライバルとの永遠の別れになった――。

 その5日後の1月26日には、シダックス野球部のОB会に出席した。シダックスの志太会長は、阪神を辞めてやりきれない惨めさを抱えていた野村を、監督として招いてくれた。そして楽天監督としてプロ野球に戻ったのを見届けるように、チームは2006年限りで廃部になっていた。

©iStock.com

 教え子たちと久しぶりに再会できる。もう迷うことはなかった。

「子どもの指導者になっている元選手が多い。教えを引き継いでくれる人がいて嬉しい」

 妻が逝って2年と2カ月。人生を支えてくれた人たちに直接、感謝を伝える野村の旅が終わった。

 そして、その日が来た。