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津波で破壊された街を猛火が襲い、残された黒焦げの遺体…「どうやって救助すればいいのか」自衛隊元隊長“12年目の告白”

東日本大震災から12年、元隊長が「逃げて」と訴える理由#1

2023/03/11

genre : ライフ, 社会

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「国道隊」は遠野市まではるばる引き返して山間部へ入り、細いくねくねとした県道を走った。雪があるうえ、凍っていてズルズルと滑る。屋外で炊事する機材を搭載した牽引車は谷底へ落ちそうになった。

 大槌町に着いたのは翌3月12日午前4時頃だった。

「戦場だ。大砲が着弾するような音が聞こえる」

 まず、中央公民館に向かう。役場から歩いて10分ほどの山(海抜34.7m)にあり、大槌町の地域防災計画では、役場が被災して使えなくなった時には、ここに災害対策本部を置くことになっていた。

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 ところが、中央公民館に災害対策本部は設けられていなかった。当然いるはずの町長も姿がない。それどころか役場の課長や係長の姿もほとんど見当たらなかった。「30人ほどの職員がいただけでした」と中武さんは話す。

 実は地震の発生直後、大槌町役場は大津波警報が出たにもかかわらず、本庁舎の庭に机や椅子を並べて災害対策本部を設営しようとした。海抜がほとんどなく、津波に襲われたら壊滅してしまうような場所であったにもかかわらずだ。

 結果として、2階建ての役場は海に丸呑みにされてしまう。その場にいた職員は庁舎の屋上に逃げた15人と、一度流されてたどり着くなどした6人の計21人が助かっただけだった。町長や多くの課長が犠牲になり、職員や臨時職員らも含めると、全体の3割に当たる40人が亡くなった。

 大隊が到着した時、生き残った職員はまだ庁舎の屋上で助けを待っていた。だから、災害対策本部が置かれるはずの中央公民館にいた職員数が極端に少なかったのである。

 津波に破壊し尽くされた大槌の街ではどこからか火が出て、瓦礫をなめるように燃え広がった。

大槌の街は消防団が言う通り、風向きが変わるとまた炎が上がった。もうもうとした煙に包まれ、太陽はオレンジ色に見えた(2011年3月12日、中武裕嚴さん提供)

「ドーンと5分に1度ぐらい大きな音がします。プロパンガスの爆発だと言われていましたが、もう戦場だなと思いました。大砲の着弾する音によく似ていました」と中武さんは語る。

 もはや手がつけられる状態ではなかった。消防団員が数人いて、「消防車がない。消す手段もない。どうしたらいいか、分からない」と話していた。燃え尽くすのを見守るしかなかったのである。

 中武さんは、その場にいた町職員らに地図を広げさせ、分かる範囲の情報を書き込ませて、状況を把握しようとした。

 救急車が1台残っていて、救急隊員が「すぐにでも遠野市へ搬送しないと危ない人がいるのに、ガソリンがない」と嘆いていた。このため部隊が発電用に持ってきたガソリンを満タンになるまで分けた。

煙に巻かれて見失った道。「もうダメか」と思ったその時…

 中央公民館は臨時の災害対策本部になるはずだっただけに衛星電話が一つ備えてあったが、県庁にはなかなかつながらなかった。何度も何度も掛けて、1時間ほどしてつながると、県を通じて自衛隊にヘリコプターの出動要請をした。そうして到着したヘリコプターでは多くの人が救出されることになる。