文春オンライン

<追悼・坂本龍一>「ぼくが死んだ後は…」直腸がんで闘病生活を送っていた教授の知られざる“最期の願い”

2023/04/03
note

細野晴臣、高橋幸宏と出会いYMOが生まれた瞬間


 その後もりりィや大貫妙子、山下達郎などの活動を支え、転機が訪れたのは1978年。

 それまでのいわば裏方の仕事に飽き足らず、自分自身の作品を世に出すことを決め、この年の誕生日からはじめてのソロ・アルバムのレコーディングの準備を始めた。同年10月にリリースされるファースト・アルバム『千のナイフ』だ。

 この『千のナイフ』のレコーディング中には細野晴臣、高橋幸宏とのイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の結成にも参加することになった。はじめての本格的なバンド活動ということで逡巡もあった。だが、YMOへの参加が坂本さんの運命を大きく変えることになった。

ADVERTISEMENT

 細野晴臣の音楽には以前から注目していた。

<大滝詠一さんのレコーディングで初めて細野晴臣さんと会いました。(中略)てっきりドビュッシーやストラビンスキーを学んで、はっぴいえんどや小坂忠さんの『ほうろう』などでの洗練された音楽を作っているとばかり思っていたのに、実際はそうじゃなくてびっくりしました>(2016年。CD『Year Book 1971-1979』ブックレットのインタビュー)

 高橋幸宏とは最初に出会ったときに、あまりのスタイリッシュさに「ロック・ミュージシャンがこんなにお洒落でいいのか」と驚愕したそうだが、ソロ・デビューの際にファッションのコーディネートをしてもらうことになり、それまでの長髪とサンダル姿というむさ苦しい格好から生まれ変わることになった。

高橋幸宏のファッションセンスに大きな影響を受け……

<そうか、こういう世界もあるんだと、高価でおしゃれな服を着ました。これも楽しくてファッションのことも勉強し、それからいまに至っています。これもぼくの人生の転機になった出来事でしょう>(2016年。アルバム『千のナイフ』リマスター版ライナーノート用インタビュー)

『千のナイフ』と同年の1978年にデビュー・アルバムを発表したYMOは、当初こそ知る人ぞ知る存在だったが、翌1979年に世界各国でレコードがリリースされ、海外でのコンサート・ツアーも成功させたことで逆輸入のような形で日本でもブームを巻き起こすことになる。同時に、坂本龍一という名前も大きく知られるようになった。

 YMOでは作曲や演奏の面だけでなく、音響や技術面でも才能を発揮した。

 この頃、坂本さんやYMOのアシスタントをしていた音楽プロデューサーでシンセサイザー・プログラマーの藤井丈司は、スタジオでシンセサイザーを使ってヘリコプターのローター音を作らなければならなかった。だが、どうやって作ればよいのかわからない。

 困って坂本さんの自宅に電話すると、

「ああ、そう。メモ取れる?」と電話口でそのシンセサイザーの「このスライダーをこの目盛りまで上げて、隣のスイッチをこうして」と複雑な手順をすらすらと答え、その通りにしたら見事にヘリの音が鳴り出したそうだ。

 坂本さんはその場にシンセサイザーの実機がなかっただろうに、すべての音作りを暗記しているのだと、これまた驚愕したという。