ミュージシャン、そしてファッションデザイナーとしても活躍した高橋幸宏が誤嚥性肺炎のため1月11日に亡くなった。享年70。「ライディーン」など数々の名曲を世に送り出した彼の足跡を、公私ともに親交の深いライターが振り返った。
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「高校の頃、家に帰ると母と同級生が麻雀していてなぜかユーミンもいて…」
1952年6月6日、東京に生まれた高橋幸宏の父は会社経営者で、軽井沢に別荘を持ち、長じると一家は夏には軽井沢という生活を送っていた。後に音楽プロデューサーとなる兄の高橋信之は高校生のときにバンドを組み、高橋幸宏も小学生の頃からドラムを始めた。ドラムを選んだ理由は<ドラムを練習できる家に住んでいる子どもがそうはいなかった>のも理由のひとつだと後年のインタビュー(ユリイカ2013年10月臨時増刊号/インタビュアー:青野賢一)で話している。
中学生になると自分のバンドも始めた。メンバーは後にバズを結成する東郷昌和ら。荒井由実もメンバーに加わることがあった。のちのユーミンである。当時、高橋幸宏は15、16歳、ユーミンは14歳。当時の高橋幸宏の実家は200坪を超える大きな日本家屋で、そこには多くの人が集まった。
立教高校に通っていた頃は<帰ってきたら母と同級生が麻雀してて、なぜかそこにユーミンが混ざってて…>(同)ということなどもあったという。ユーミンとのバンドではテレビにも出演し、それが縁となって加藤和彦や景山民夫と仲良くなった。
のちにYMOを組むことになる細野晴臣と出会った立教高時代
高校生になる頃には兄の仕事を手伝ってセッション・ミュージシャンの活動も開始。立教高校にドラムのうまい高校生がいるという噂は東京のアマチュア音楽シーンに広まり、当時立教大生だった細野晴臣とも知り合って軽井沢でお互いの演奏を見学している。
19歳で武蔵野美術大学に入り(後に中退)、そこではデザインを勉強しつつ、「学生街の喫茶店」のヒットで知られるフォーク・グループのガロにも一時在籍した。そして高橋幸宏の運命を変えたのが加藤和彦に誘われてサディスティック・ミカ・バンドにドラマーとして加入したことだった。20歳のときだ。
サディスティック・ミカ・バンドは加藤和彦とミカ、小原礼、高中正義らのグループで、T・REXやロキシー・ミュージックといった当時のロンドンの最先端のサウンドであるグラム・ロックに強く影響を受けた音楽を奏で、日本の音楽シーンでは異色の存在だった。
やがてポップでカラフルなサディスティック・ミカ・バンドは日本のみならずグラム・ロックの本場でもあるイギリス、ロンドンでも注目されるようになる。
1973年に発売されたファースト・アルバム『サディスティック・ミカ・バンド』はイギリスでも発売され、それを聴いて気に入ったイギリスの著名プロデューサーが次作のプロデュースを申し出た。
そのセカンド・アルバム『黒船』は内外で高く評価され、イギリスだけでなくアメリカでも発売。日本では収録曲のひとつでのちに、のんもカバーすることになる「タイムマシンにおねがい」がシングルとなって注目を集め、バンドの代表曲となっている。