1975年には渡英し、ブライアン・フェリーが率いるロキシー・ミュージックのイギリス・ツアーに前座として参加した。このときのコンサートを観た観客の中には後に日本でも人気を集めたバンド、ジャパンを結成することになるスティーヴ・ジャンセンもいて、高橋幸宏のドラムに大きな影響を受け、1980年代から晩年まで親しく交流することになった。
また、このときのイギリス・ツアー、海外での経験はその後のYMOの海外進出の際には大きな糧となったことは言うまでもない。
坂本龍一に与えた衝撃「ロックがこんなにお洒落でいいのか!」
サディスティック・ミカ・バンドはこの1975年限りで解散するが、同時期に東京で同じイベントに出演した矢沢永吉のバンドにはキーボディストとして坂本龍一が参加しており、初対面となった。このときの高橋幸宏に対する印象は「ロック・ミュージシャンがこんなにお洒落でいいのか!」というものだったと、坂本龍一は後のさまざまなインタビューで語っている。
大学でデザインを勉強する以前から高橋幸宏はファッションに強い関心を持っていた。ファッション業界に進んだ姉の影響もあって早くから周囲の知己のスタイリングなども手がけており、やがてバズ・ショップというファッション・ブランドのデザイナーも兼業することになる。1980年代には渋谷のパルコにブリックス・モノという自身のブランドのショップも開いた。ファッション面では、後にそれまでバンカラな風態だった坂本龍一の様子を洗練されたスタイリングによってがらりと変えさせたのも高橋幸宏の功績だろう。
サディスティック・ミカ・バンドの解散後、ふたたび大きな転機が訪れたのは細野晴臣に新バンド、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)へ仲が深まっていた坂本龍一ともども誘われたときだ。1978年。
YMOはファースト・アルバム発表後すぐに海外デビューが決まり、2度に渡るワールド・ツアーも行った。
そのYMOの最大のヒット・アルバムが1979年に発売された『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』で、当時としては異例の100万枚以上の売り上げを記録し、YMOは時代の寵児となった。
名曲「ライディーン」誕生秘話
日本でのYMOの大ブームを牽引したのがこのアルバムに収録され、シングルにもなった高橋幸宏作曲の「ライディーン」だ。 2012年刊の自身の著書『心に訊く音楽、心に効く音楽』(PHP新書)で、作曲の経緯やどういう音楽に影響を受けてできたのかは漠然としていて憶えていないとしつつ、<ライディーンほど、世代によっていろんな受け止められ方をしているYMOの曲はないかもしれません。(中略)ぼくには忘れがたい曲です>と振り返っている。
アルバムでは冒頭3曲がディスコ・ビートを伴ったメドレーで、坂本龍一作曲「テクノポリス」、細野晴臣作曲「アブソリュート・エゴ・ダンス」、そして「ライディーン」と続いている。
日本の歌謡曲を分析、解析して構築された坂本作品、沖縄民謡の要素を取り込んだ細野作品に対し、高橋幸宏の「ライディーン」は、黒澤明が『スター・ウォーズ』のようなSF作品を撮ったらどういうものになるのかという発想で、徹底的にポップでカラフル、かつエネルギッシュな作品となっている。
高橋幸宏のYMOでの個性と役割がよくわかる三者三様ぶりだ。「ライディーン」は最先端の音楽リスナーから竹の子族や小学生にまで幅広く愛される楽曲となり、パチンコや携帯電話の着信音に使用されるほど後々まで「日本の風景の音」となった。
YMOのイメージを決定づけた赤い人民服などのユニフォームも、もちろん高橋幸宏デザイン。