1980年代初め、テクノポップで世界を席巻したバンド、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)はいまから40年前のきょう、1978(昭和53)年2月19日に結成された。

細野晴臣 ©山元茂樹/文藝春秋

 この日、ミュージシャンの細野晴臣(当時30歳)は自身のアルバム『はらいそ』の1曲「ファム・ファタール」の録音で、坂本龍一(当時26歳)と高橋幸宏(当時25歳)とセッションしたあと、彼らを自宅に招いた。そこで細野がおにぎりをふるまい、こたつに入りながら、かねてより考えていたYMOの構想を話すと、2人も意気投合、グループ結成にいたる。説明にあたり細野が見せたノートには、アメリカのミュージシャン、マーティン・デニーの楽曲「ファイアークラッカー」を、シンセサイザーを用いたディスコサウンドでカバーし、そのレコードの売り上げ目標は世界で400万枚と書かれていた。

 ただし、結成の時点で決まっていたことは、「ファイアークラッカー」をディスコ化するということ以外にほとんどなかった。作曲や演奏にコンピュータを使うことも、準備を進めるなかで決まった。細野によれば、1stアルバムの録音が1978年7月から正式に始まる前に、一度「ファイアークラッカー」を人力でカバーしてみたものの、思わしい出来にはならず、そこで初めてコンピュータは必需品だと気づき、再度録り直したという(細野晴臣『細野晴臣インタビュー THE ENDLESS TALKING』北中正和編、平凡社ライブラリー、田中雄二『電子音楽 in JAPAN』アスペクト)。

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 細野としては当初、YMOは、バンドというよりは企画性の高いプロジェクトというイメージが強かったらしい。そのため、メンバーも3人に限定するつもりはなく、1stアルバムの制作段階では、彼とレコードをつくったこともある美術家の横尾忠則を“第4のメンバー”に迎える構想もあった。記者発表には、横尾も3人と一緒にテクノカット(刈り上げにもみあげを落とした髪型)にタキシード着用で出席する予定だったが、仕事の締め切りがあって行けず、結局この話は立ち消えとなる(「ほぼ日刊イトイ新聞」2016年11月28日)。

©getty

 坂本と高橋はこのころ、スタジオミュージシャンとして多忙をきわめていたが、YMOへの参加を機に、裏方から独立したミュージシャンへと転じた。グループの1stアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』の発売(1978年11月25日)に先立ち、高橋は『サラヴァ!』、坂本は『千のナイフ』とそれぞれ最初のソロアルバムをリリースしている。翌79年には『イエロー・マジック・オーケストラ』がリミックスのうえアメリカでも発売され、「ファイアークラッカー」はシングルカットされた。海外での評判が先行したYMOだが、このあと同年9月に、のちのヒット曲「テクノポリス」や「ライディーン」を収録した2ndアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』をリリース、これと前後して行なった米ロサンゼルス公演と欧米各地でのワールドツアーを経て、日本でもブームを巻き起こすことになる。