文春オンライン

連載明治事件史

色仕掛けで男を襲い、カミソリで殺して逮捕…病気の夫を支えた美人妻がなぜ「稀代の毒婦」になったのか?

毒婦「高橋お伝」#1

2023/09/24

genre : 歴史, 社会

note

男を殺したお伝は愛人・市太郎と酒を飲んでいたが、あっさり逮捕

「これは大変だ。姉の敵討ちがあった」と大騒ぎ。お伝はその足で新富町の市太郎のもとへ帰り、一緒に家を出て酒を飲んだ。翌日、霊岸島の川に舟をつないでいた甚三郎に、盗んだ金のうち10円を返し、残った1円もほかの借りを返した。これでまずまず安心と思っていると、すぐその筋から手が入り、難なく縄目にかかった。このうえは、首と胴とが離れ離れとなりますやら。アア恐ろしいことではありませんか。まず今般はこれきり。

「男を殺したのは姉の敵討ちだった」とでたらめの犯行動機をつづった書き置きを、現場に残した(横浜毎日新聞より)

 綿谷雪『近世悪女奇聞』(1979年)によれば、警視庁の捜査は、金を持って出たまま帰らないのを案じた吉蔵の家族が届け出て、「丸竹」で殺害された被害者の所持品から身元が判明。お伝については、人相書きから住所が新富町付近と分かって、しらみつぶしに探したという。他紙も読売とほぼ同内容だが、書き出しに時代と事件の特徴をにじませた記事も。朝野新聞は「女には恐ろしい心のある者もあり、その色に迷い心を許せば、金どころか命までなくしますからご用心ご用心」と記述。

 東京曙新聞は「サアサア皆さん、お聞きなさい。深い意趣遺恨があるわけでもないのに、ただお金を貸さないばかりのことで男を殺害した前代未聞、無類、飛び切りとも言うべき女の大罪人ができました」と江戸時代の瓦版のよう。締めくくりも「皆さん、お退屈でお気の毒さま」だった。郵便報知は「鬼人お松や熊坂お六の小伝は草双紙や歌舞伎芝居で見もし聞きもしたが、また現れるとは思っていなかったのに、それにも劣らぬ毒婦というは――」と書いた。

初めてお伝を「毒婦」と称した郵便報知

またたく間に「毒婦」のイメージが定着した

「鬼人(神)お松」は歌舞伎などでの「悪婆」の役回り。「熊坂お六」は不明だが、同様の「悪婆」と思われる。お伝も意識していたのだろう。「丸竹」に宿泊する際には「(お)まつ」という偽名を使っている。

ADVERTISEMENT

 早くも事件の一報の段階でお伝には「毒婦」の形容詞が付けられ、イメージが確定した。記事を2日に分けて載せた東京日日(東日)も13日付の末尾は「まれな毒婦でございました」が締めくくり。戯作者・仮名垣魯文が編集を担当した假名讀(仮名読)新聞の12日付記事の末尾には「(8月)29日に早くも悪事が露顕して召し捕られましたが、ナント図太い阿修羅婀魔(あま=女のこと)ではありませんか」とある。挿し絵入りで人気があった東京繪(絵)入新聞はお伝の経歴が詳しい。

 上州沼田藩・廣瀬某の娘で2歳の時、同国下牧村(現月夜野町)の高橋某方へ養女にもらわれ、成長後、波之助という婿養子をもらった。この婿が癩(らい)病(ハンセン病)を患い出して、おいおい体が腐るので、養家でも持て余して離別をしようという話になると、お伝はさすがに見捨てかねたようで明治2(1869)年、波之助を連れて家を抜け出し、野州(現栃木県)某村の光正寺という所にしばらく同居。夫に湯治でもさせたとみえて少し体がよくなったので東京へ出かけ、また横浜へ行って野毛辺りにいるうちに、看病のかいもなく、波之助は明治4(1871)年、ついに病死した。それまで夫を養うにも女の身では仕方がないと売春のようなこともしてきたらしいが、そのころ、上州富岡の商人・小澤伊兵衛と深い関係になり、その世話で秋元幸吉の家に同居した。

 出身地は新聞によってバラバラ。上京や波之助死亡の時期などはお伝の供述と違っているが、ここでハンセン病が登場する。

関連記事