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連載明治事件史

色仕掛けで男を襲い、カミソリで殺して逮捕…病気の夫を支えた美人妻がなぜ「稀代の毒婦」になったのか?

毒婦「高橋お伝」#1

2023/09/24

genre : 歴史, 社会

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愛人宛の手紙には「減刑の工作」のお願いが

 このたびはいろいろの事内は難しく候。命に関わり候まま、りんさい寺の方丈に本町の先生と、高いところから嘆願してくだされ。下からでは駄目だ。探索が入るから、世間の事を頼む。宗そうとんさんに話して、高いところの手づるを頼んで、嘆願してくだされ。そうでなければ助からない。おさげだけでよいから。

 寺の住職や町医者ら、地位の高い有力者に頼んで減刑の工作をしてほしいということだろう。このあたりも「毒婦」のイメージを補強する材料になったのではないか。

「小川市太郎といふものと夫婦のように」各紙は連日、事件の記事を載せた(読売)

強情に白状せず、お伝の取り調べは手こずった

 この後、新聞報道はしばらく途絶える。次に登場するのは翌1877(明治10)年8月9日付の東京曙の短い記事だ。

 上州出生のお伝(俗に「鬼神お伝」と呼ばれる女)はその筋へ引き渡されて調べのうえ、東京裁判所刑事課の追及にも、党類(一味)の者はお伝の罪状をことごとく白状したのに、お伝はあくまで強情に申し述べて白状しないため、一昨日からは「糾問掛」において一層厳しく調べるという。

「党類の者」とは市太郎のことか。「糾問掛」は取り調べ専門の判事。お伝の態度が頑強で調べに手こずっていることが読み取れる。さらに翌1878(明治11)年8月23日付東日にはこんな記事が。

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 さる明治9年のこと、浅草・蔵前の旅人宿、大谷某方で先夫を殺し、金を奪い取った毒婦・高橋お伝は、その後幾久しく獄中に置かれていたが、昨日(22日)、裁判所で口供に拇印を押したという。

 取り調べを終結し、供述に本人の拇印を押させて公判に向かうという意味だろう。この段階で事件から約2年。お伝の態度がいかに強硬だったかが分かる。森長英三郎「裁判・自由民権時代-6- 高橋お伝 虚構に生きる女」(「法学セミナー」1975年7月号所収)は「当時としては随分悠長な裁判であったといえる。これはお伝が自白と否認の供述を転々と繰り返していたからである」と述べている。

巧みに虚実を混ぜてでっち上げた供述

 その供述内容は同盟通信(共同通信・時事通信の前身)記者だった石渡安躬の『斷(断)獄實(実)録 第2輯』(1933年)に掲載されている。要旨は——。

 波之助とともに上京したのは明治5年1月。波之助の病気全快を願って虎ノ門外の金刀羅神社へ毎朝参詣していて、同じような境遇の女性と知り合い、身の上話を打ち明けているうち、かねて聞いていた腹違いの姉かねと分かった。かねの家を訪れた際、内田仙之助と名乗っている、かねの雇い主らしい後藤吉蔵と知り合った。同年8月、男が吉蔵から頼まれた名薬と言って水薬を持ってやってきた。波之助に飲ませると、胸から顔が赤く腫れあがり、苦しんだすえ8月14日に死んだ。明治6年、かねが後藤に刺し殺されたという書状が届いた。

 

(事件のあった)明治9年8月27日は、前日吉蔵から呼び出され、抱きつかれて組み伏せられた。短刀を抜き放って打ちかかってきたので、びっくりして手で払ったところ、短刀の刃先が吉蔵の首筋に当たった。自分は次の間に逃げたが、吉蔵は「もはやこれきり」と言いながら、自分でのどを切って果てた。

 敵討ちどころか、自分が殺したのではなく、被害者が自分で首を切ったという主張。お伝の供述にはさまざまな人物が複雑に登場するが、よくもここまで作り上げた、とあきれるほど、ほとんどが「でたらめ」と考えられる。井門寛「高橋お伝 克明な調書が伝える罪と罰」(「歴史と旅」1994年11月号所収)は「裁判所の判事たちをさんざんてこずらせたといわれるだけに、巧みに虚実を取り混ぜて見事にでっち上げられている」と評している。

 お伝に下された判決とは。そしてお伝の“体の一部”は驚くべきことに――。

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