文春オンライン

"万年助手"として77歳まで東大に居座る…やりたいことしかやらない牧野富太郎の究極の「ズボラ力」

source : 提携メディア

genre : ライフ, 歴史, 働き方, ライフスタイル, テレビ・ラジオ

note

執達吏は裁判所の命令によって、財産を差し押さえたり、競売に付したりするのが役目だから、牧野としても「茫然として執達吏たちの所業を見まもる」しかないが、相手が借金とりであれば、「もう2、3日待ってほしい」とか「いま金を工面しているから」とか、何とか口実をつくることもできる。しかし、そういう交渉は牧野の得意とするところではなかったらしい。そのへんのところは、すべて奥さんにまかせていた。奥さんは良妻賢母型の苦労人だったようである。

牧野が大学から家に帰ってくると、家の門に赤旗の出ていることがあった。それは「いま借金とりがきてますよ」と奥さんが気をきかせて出してくれる危険信号だった。

赤旗を見ると牧野は近所でぶらぶらと時間をつぶし、鬼のような借金とりが帰ってから家に入ったという。

ADVERTISEMENT

妻の寿衛子が死んだのは貧乏で治療ができなかったからか

この奥さんは名を寿(す)衛(え)子(こ)といったが、昭和3年(1928)に病原不明の病気となり、有効な治療もできないままに、54歳で亡くなった。ここで「病原不明」といったのは、牧野の自叙伝による表現である。牧野の娘、岩佐玉代の「わが母 寿衛子を語る」(『植物と自然』1981臨時増刊)によれば、「入院しても、お金が続かないために徹底的な治療ができなかったのです。最後は肉腫が原因で……」という表現になっている。その奥さんが亡くなる前の年、牧野は仙台で新種のササを発見したので、それに「スエコザサ」と名づけて、奥さんへの感謝の念を表わし記念とした。

牧野は経済的には苦しいなかで、本を買うことや研究には金を惜しまなかった。牧野が植物学の研究を志した若いころ、自分の決意を示した文章に「赭(しゃ)鞭(べん)一(いっ)撻(たつ)」がある(『植物分類研究』下巻)。赭鞭とは「赤いむち」のことで、昔の中国で本草学の祖といわれた神農が、薬草を調べるのに赤いむちを使って草を打ったという故事にちなんで、本草学のことを赭鞭ともいう。牧野が若いころは、本草学=植学=植物学の用語が混在していたこともあり、植物学に志す決意を「赭鞭一撻」(赭鞭を励ます)に表わしたのである。