突然、「お前のせいで具合が悪くなった!」と言って派手に倒れ、救急車を呼ぶよう命令されたことは数知れず。「またあの家、救急車が来てるよ」と近所で有名になったほどだ。搬送先の病院でも母親は“フリ”を続け、様々な検査をした後、どこも悪いところはないと判断された母親は、ビタミン注射を受けて帰されるのがお決まりのパターンだった。
「あんたは私のブランドなの」
三宅さんが小学校に上がると、母親は習い事や勉強を強要。ピアノ、英会話教室、学習塾3つ、習字のほか、家庭教師まで付けられた。
成績は常にトップでないと許されず、テストで100点を取らないと、大切にしていたものを窓から外に投げ捨てられたり、田舎で真っ暗な夜中に校庭を何周も走らされたり、包丁を振り回しながら怒鳴られたりした。
「母は、人目につくような嫌がらせや虐待はしませんでした。当時の私は、“厳しい=愛がある”と信じて疑わず、私の家庭は“教育熱心な素敵な家庭”と思い込んでいたのです」
教員である母親は計算高く、体や顔に痕が残るような体罰はしなかった。
「母はよく、『長女ができていれば下の子もできる、下の子がダメならそれは長女の責任』と言い、私にプレッシャーを与えました。母は私と妹をお互いにライバル視させるように仕向けたので、姉妹仲は最悪です。しかし母は弟にだけは甘く、私や妹は学校の成績が5段階評価の4以上ないとひどく罵られましたが、弟だけはオール2でも怒られませんでした」
母親は、学校行事には皆勤賞で参加。夏休みの宿題は、家族でキャンプに行った家族写真のアルバムを作るよう強要し、提出させた。
「母は周りに、『私は幸せ。円満家族です』とアピールしたい人でした。狭い小さな田舎町なので、変な噂が広まることを気にして、外向きには常に演技をしていた感じです」
ブランドの服やバッグが大好きだった母親は、「あんたは私のブランドなの」と言い、三宅さんにもブランドものの子ども服を着せた。
「子どもの頃は言われる度に誇らしく思っていたのですが、今この言葉を思い出すとぞっとします。母は、『あんたは鼻が低くて可愛い』『顔がでかくて顔が歩いているみたいで可愛い』『なまけものみたいにのろまで可愛い』など、“褒めていることにして貶す”言い回しを得意としていました。今思うと娘である私を、女性としてライバル視していたように思います」