子どもを自らの所有物のように扱い、生きづらさなどの負の影響を与える「毒親」。その中でも「毒母と娘」の関係は、目に見える暴力などの形ではなく、精神的で不可視な問題を含むことが多い。
ここでは、ノンフィクションライター旦木瑞穂さんが「毒母」に育てられた8人の当事者に取材し、その毒との向き合い方のヒントを探った『毒母は連鎖する 子どもを「所有物扱い」する母親たち』(光文社)より一部を抜粋。
毒母との共依存関係に陥ってしまい、自分自身も毒母になっていたことに気付いたという、山陰地方在住の金山玲美さん(仮名・40代)のケースを紹介する。(全2回の1回目/続きを読む)
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母親と同じ道へ
中学校を卒業した金山さんは、地域で2番目の進学校に合格。しかし入学後、仲の良い友だちと離れたくなくてバレーボール部に入ると、練習が厳しいだけでなく、監督の暴言も激しかったため、毎日心身ともにヘトヘトになる。マネージャーになろうと思ったが、母親からは「マネージャーになるのはやめるのと同じ」と言われ、そろばんのときの、「一度やめたらやめ癖がつく、我慢を覚えない子になる!」の言葉が頭から離れず、八方塞がりに。
「今思うと、監督はモラハラ・パワハラ当たり前の人でしたが、当時の私は、母親から似たような行為を受けていたためそれに気が付かず、親や祖父母に相談することもなく、ましてや『そんな監督がいる部活、おかしいからやめなさい』と言ってくれる家族もおらず、やめていく先輩や同級生をすごいなと思って見ていました」
高校2年生のとき、80代だった祖父が亡くなった。基本は祖母が在宅介護していたが、中心静脈栄養の管を抜いてしまったときや、点滴が必要なときなどは看護師である母親がサポートしていた。亡くなる前日まで歩くことができた祖父は、夜中に家を抜け出し、一晩中歩いて心臓発作を起こし、翌朝亡くなったという。金山さんが生まれ育った地域は閉鎖的な田舎だったため、近所の人たちから母親は、「看護師の嫁がついていながら……」と非難を浴びた。
絵を描くことが好きだった金山さんは、高校卒業後の進路を考える際、その道に進みたい気持ちがあった。しかし誰にも打ち明けず、もちろん両親が金山さんの志望を聞き出すこともない。不仲な両親は、「女は大学に入っても、金がかかるだけでダメだ」と珍しく意見が合い、金山さんの大学進学の道を閉ざした。「中途半端な頭なら、手に職しかない」と言って両親が提示したのは、母親と同じ看護師の道。結局それが金山さんにとっての、本当の地獄の始まりだった。