子どもを自らの所有物のように扱い、生きづらさなどの負の影響を与える「毒親」。その中でも「毒母と娘」の関係は、目に見える暴力などの形ではなく、精神的で不可視な問題を含むことが多い。
ここでは、ノンフィクションライター旦木瑞穂さんが「毒母」に育てられた8人の当事者に取材し、その毒との向き合い方のヒントを探った『毒母は連鎖する 子どもを「所有物扱い」する母親たち』(光文社)より一部を抜粋。
高校2年生のときから若年性パーキンソン病の母親を介護し、40代で看取った、現在50代の田中文子さん(仮名)の事例を紹介する。幼少期から思春期にかけての、田中さんと両親の関係は――。(全4回の3回目/続きを読む)
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男尊女卑な父親と精神不安定な母親
田中さんの父親は、北海道の田舎の貧しい漁師の家庭で11人きょうだいの9番目に生まれ育ち、高校を出て市営バスの運転手となった。一方母親は、東北地方で10人きょうだいの5番目として生まれた。母方の祖母が裕福な家の長女だったため、母方の祖父は婿養子だった。
しかし、太平洋戦争が始まると急激に家は貧しくなり、きょうだいの中で田中さんの母親だけ、20歳になった途端、北海道へ出稼ぎに行かされる。住み込みで旅館の仲居をしていた母親は、25歳くらいの頃に知人の紹介で父親とお見合いすることになり、父親31歳、母親27歳で結婚。父親の実家で義両親とともに生活を始めた。
それから2年後、第1子が生まれる時期と同じくして、父親はすぐ下の弟(田中さんにとっての叔父)と自動車の修理工場を立ち上げ、母親は経理を手伝うように。その5年後に田中さんが生まれた。
「同居していた父方の祖父母は、私が物心つく前に亡くなっていました。母は祖父母の介護をしながら、父の会社の経理や社員の食事の世話、生まれたばかりの兄の育児をしていたようです」
田中さんが物心ついた頃、すでに両親は不仲だった。暇さえあれば両親は口喧嘩。田中さんと6歳年上の兄は、両親の喧嘩が始まると、必ず後で自分たちにもとばっちりが来るのでうんざりしていた。
夫婦喧嘩の後、母親はいつも、「お父さんは私の言うことを聞かない。いつも仕事ばかりで家に居ない。頑固で、自分が良ければ私のことなんてどうでもいい人。あんな人と一緒になったら苦労するから、絶対にあんな勝手な人と結婚しないように!」などと、父親の愚痴や悪口を田中さんや兄に聞かせ、時には、「お父さんは浮気性だから、浮気相手の女に財産を乗っ取られないように、あんたとお兄ちゃんがしっかりしないと!」と、妄想なのか真実なのかわからないようなことを言われることもあった。
「母は、原因はよくわかりませんが、私が幼い頃から寝たり起きたりを繰り返していて、体が弱いというよりも、精神的に不安定だなと思うことが度々ありました。いつも機嫌が悪くイライラしていて、ヒステリックに私や兄や父に暴言を吐いたり、『お父さんは浮気をしているから帰りが遅いんだ!』とか『あんた、万引きしたんじゃないの?』など、突発的に妄想的なことを口走っていました。母は、父には今まで何人か女性の影があったと言っていましたが、実際はわかりません。私は母の妄想だと思っています」
寝たり起きたりを繰り返す母親を心配して、田中さんは母親の家事を手伝うようになっていった。しかし、兄が自分が食べた夕食の食器を片付けようと立ち上がろうとしようものなら、「お兄ちゃんは男だから家事はしなくていいの! あんたが早く動かないから、お兄ちゃんが動くでしょう!」と言って田中さんばかり叱った。これは父親も同じで、「男の子に家事をさせるな。お風呂に入るのは男から。女の子は男の人の言うことを聞いていればいいんだ」と口癖のように言っていた。