子どもを自らの所有物のように扱い、生きづらさなどの負の影響を与える「毒親」。その中でも「毒母と娘」の関係は、目に見える暴力などの形ではなく、精神的で不可視な問題を含むことが多い。
ここでは、ノンフィクションライター旦木瑞穂さんが「毒母」に育てられた8人の当事者に取材し、その毒との向き合い方のヒントを探った『毒母は連鎖する 子どもを「所有物扱い」する母親たち』(光文社)より一部を抜粋。
高校2年生のときから若年性パーキンソン病の母親を介護し、40代で看取った、現在50代の田中文子さん(仮名)の事例を紹介する。学業、結婚、妊娠・出産……母親との関係が田中さんに与えた影響はどれほどだったのか――。(全4回の4回目/前回を読む)
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浪人と退学
田中さんは高校2年生の秋、ある大学の経済学部に行きたいこと、家を出て1人暮らしをしたいことを母親に打ち明けた。すると、以前から田中さんに看護師か栄養士、薬剤師になってほしいと思っていた母親は激怒。それ以外の道は絶対に認めなかった。
母親は何日も田中さんを無視し、食事も作らない日が続く。母親が父親に、「あの子はわがままで手に負えない!」と言いつけ、父親が田中さんと話をする場をもうけると、田中さんは父親に何度も頼み込んだ。1年ほどかけて頼み込んだところでようやく父親が折れ、母親を説得してくれた。
「もともと父は言うことがコロコロ変わり、『そんなこと言ってない』『そういう風には言ってない』などと、自分が言ったことを平気で覆す人でした。自分のそのときの気持ち次第で言うことが変わる人なので、説得できたらすぐに行動しないと、また同じことを繰り返すので面倒くさいのです」
ところが田中さんは受験に失敗。浪人が決まると両親は、「お前は人生を無駄に過ごしている」「女が浪人なんて恥ずかしい」と口々に罵倒。翌年、無事に合格すると、「浪人して無駄金使ったんだから、合格して当たり前」と嘲笑した。
「兄が優秀だったこともあり、『お兄ちゃんはできるのに、あんたは塾や通信教育までやっていてこの成績か?』と言われ続けました。私の成績は中学校の頃、クラスで5番以内、学年でも50番以内には入っていて、決して悪かったわけではありません。兄が学年でもいつも10番以内に入っていたので、私は頭が悪い娘として扱われていたのです」
しかし、そんな思いまでして入学した大学を、田中さんは1年で退学する。もともと、「母のために介護技術や知識を身につけたい」と思っていた田中さんは、浪人時代に福祉の道を志している友人ができ、その友人と話しているうちに、福祉の世界に魅力を感じるようになっていた。
また、母親の付き添いで病院を受診していると、ソーシャルワーカーの仕事ぶりに目が行くようになり、「ソーシャルワーカーになりたい」という思いが強くなっていた。さらに、両親が常々、「看護師か薬剤師、栄養士になって病院で働け」と言っていたため、「ソーシャルワーカーになって病院に勤務すれば、両親は自分を認めてくれるかもしれない」と思ったのだ。
「昔は保育士の資格で介護や障害の分野で働くことができ、経験を積んだ後、ソーシャルワーカーにステップアップすることができました。そのため、まずは保育士の資格を取り、卒業後は介護施設や障害者施設で働きたいと考えていました」
田中さんは、意を決して退学したいことを両親に打ち明けたが、当然ながら、「2浪したことになる!」「看護師や薬剤師なら許すが、それ以外はダメだ!」と猛反対。田中さんは、保育士と介護士の資格が取れる短大の中でも、敢えて実家から通えない遠方の短大を希望したが、火に油だった。両親は、「退学なんて許さない!」「家から通える学校じゃないと学費は出さない!」と激怒して耳を貸さない。
「すぐに母は喧嘩腰になり、途中で口をきいてくれなくなるか、『あんたがそういう考えなら私は死んだほうがまし! わがままな不良娘の母親になりたくない!』などと訳のわからないことを言い始めるので、まともに話し合えませんでした」