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揺れる家族

87歳、遠方ひとり暮らしの父が「俺は家で死ぬ」と宣言…娘である私が直面した、在宅看取りの「甘くない現実」

87歳、遠方ひとり暮らしの父が「俺は家で死ぬ」と宣言…娘である私が直面した、在宅看取りの「甘くない現実」

『家で死ぬということ ひとり暮らしの親を看取るまで』

2024/01/04
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 キャッシュレスだの、AIだの、スピード化する社会状況に到底ついていけず、といって誰かの助けを借りるのは「申し訳ない」と遠慮が先立つ。

 表向きは「俺はひとりで大丈夫だ」、そんなふうに言いつづけた裏側で、寂しさや不安と闘い、家族に心配をかけまいと必死に装っていたことを知るにつけ、老いの孤独に胸が塞がった。

「インセン」に困惑

 2022年3月、私は仕事を休業し、実家で父と同居をはじめた。次第に歩けなくなり、食べられなくなったころ、ようやく隣市の熱海市から訪問してくれる医師が見つかった。

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 翌月には介護保険の見直し(区分変更)申請を行ったが、認定結果が出るのは1ヵ月ほど先だ。自費払い覚悟でヘルパーや訪問看護、訪問入浴といった介護体制を拡充させたが、看取り介護の実態は想像以上だった。

 とりわけ「インセン」には困惑した。インセンとは陰部洗浄の略、要は「下の世話」だ。異性である父の陰部を洗ったり拭いたりすることには、どうしても抵抗感が拭えない。

 一方でヘルパーによる訪問介護は1日1回、1時間のみ。残りの時間は誰か、つまり私がやるしかないわけだが、一連の手順にせよ、準備品にせよ、「にわか」の素人介護ではオロオロすることだらけだ。

 おまけに抵抗感を持つのは私だけでなく、父もそうだった。娘に下の世話をしてもらう申し訳なさが募るのか、「もう明日にでも死ねたらなぁ」と気弱な言葉が漏れる。

在宅死=理想的な死と言えるか

 住み慣れた家で、家族に看取られて死ぬということは、一方では下の世話をはじめとしたさまざまな現実に直面することにもなる。

 訪問介護を担うヘルパーの人手不足。ナースコールも特段の医療機器もない自宅という環境。その中で呼吸困難に見舞われたり、痛みに襲われたり、不安に苛まれるようなことも起こり得る。

※写真はイメージです ©iStock.com

 そういう現実を見越した上で、それでも在宅死=理想的な死と言えるかどうか、死にゆく人も、看取る側も、それぞれ相応の覚悟が必要ではないかと思う。

 5月初旬、父は住み慣れた自宅で、私と私の次男に看取られ亡くなった。葬儀のあとに「要介護3」という介護保険の認定通知が届いたが、今さらという気持ちは拭えなかった。

 更新時には「打ち切り」、その後の再申請でも到底必要な介護体制が整わず、いったい介護保険は誰をどう助けるのか、そんな無念と疑問は膨らむ。

 さらに今後、私と同様の状況に陥る人はおそらくどんどん増えるだろう。