「在宅死の現実について、深く考えさせられた」
「在宅看取りへの過程で親子の関係性が変わり、確かな絆ができたことに感動した」
昨年8月に刊行した『家で死ぬということ ひとり暮らしの親を看取るまで』(文藝春秋)に、読者からたくさんの反響をいただいている。
拙著は、静岡県伊東市でひとり暮らしをしていた父を、3年近くの遠距離介護の末に在宅で看取った経緯を綴ったものだ。
個人的な体験、それも「親の死」というデリケートな話をありのままに書こうと思ったのは、次々と想定外の事態に直面し、「家で死ぬということ」のリアルな実態が知られていないと痛感したからだ。
ここでは拙著の一部を紹介しつつ、あらためて在宅死や在宅看取りの現状を述べてみたい。
87歳、ひとり暮らしだった父親
2019年、当時87歳でひとり暮らしだった父は大腿骨を骨折し、緊急入院した。入院時に重度の腎不全が判明、医師からは人工透析を受けるよう勧められた。ところが父は積極的な治療を拒み、「病院も施設もご免だ。俺は家で死ぬ」と言い張った。
母は10年前に亡くなり、父の息子、私にとっての兄はALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病で寝たきりだ。いくら「家で死ぬ」と望まれても、父の世話をするのは電車で往復6時間の場所に住む私しかいない。
介護保険を申請したが、認定結果は「要支援2」。週に1度、1時間のヘルパー訪問と、同じく週に1度、半日のデイサービス利用のみという体制だ。
私は仕事をやりくりし、いわゆるビジネスケアラーとして父のもとに通っていたが、通院時の付き添いなどが大きな負担となっていた。
公的サポートが打ち切りに
おまけに1年後の介護保険更新時、よりによって認定結果は「非該当」、つまり公的な介護サービスは打ち切りとなってしまう。
その時点で父は88歳、末期腎不全のひとり暮らしにもかかわらず、認定結果通知書には「心身ともに自立と判定」と記載されていた。
どうして打ち切り? 私だけでなく、多くの人は疑問に感じるだろう。とはいえこれは私の父に限った話ではなく、高齢者の誰にも起こり得る。