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「私は病院には連れて行きませんでした」現役医師が告白する…実の父親が腰椎を圧迫骨折しても家で安静にさせていた“意外な理由”

『健康の分かれ道 死ねない時代に老いる』より #2

2024/04/10
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 医療者側は患者さんが来ないと収入が得られませんから、めったなことでは来なくていいとは言いません。でも、内心では来なくてもいいのにと思っている医者も少なくないはずです。来てもどうしようもないし、長い待ち時間や往復の手間で、貴重な人生の残り時間を無駄にしていることに申し訳ない気持ちになるからです。

 もちろん、病院に行ったほうがいい場合もあります。

 私の母はもともと高血圧性網膜症で右目の視力がなかったのですが、80代で2回、左目の硝子体出血を起こし、失明しかけました。そのときはすぐ病院に行き、緊急手術で無事、視力を回復しました。また、同じく80代で高熱が出たとき、ヘルパーさんからの連絡で私が駆けつけ、救急車で病院に運ぶと、肝膿瘍で緊急入院となり、抗生剤とドレナージ(肝臓に管を入れて排膿する処置)を受けて、無事、退院しました。いずれも病院に行かなければ、失明し、命も落としたことでしょう(80代ならそれも悪くなかったかもしれません。その後、93歳で亡くなるまで、かなりつらい日々を送っていましたから)。

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 病院に行くべきか否かの判定は、一般の人にはむずかしいと感じるかもしれませんが、要は少しようすを見て、これはヤバイと思ったら病院に行くというのでいいでしょう。しかし、それはそれで悲惨な延命治療につながる危険性と引き替えです。どうしても悲惨な延命治療だけは避けたいというのなら、死の危険を冒してでも病院に行かない選択をしなければなりません。助かる可能性があるなら助けてほしい、でも、悲惨な延命治療にだけはしてほしくないというような都合のいい選択肢はありません。そういうシビアな状況でなくても、病院通いをしている人は少なくないでしょう。念のためとか、心配だからという人ですが、そういう人はせっかくの時間を無駄にしていると思います。

死の宣告のシミュレーション

 いつかは必ず死を迎えるのですから、少しでも落ち着いて迎えられるように死の宣告の予行演習をしておくのもいいでしょう。

 30パーセント前後の確率であり得るがんによる死の宣告が、イメージしやすいと思います。医者から治療の余地のない末期がんだと告げられたとき、どうするか。

 自分は従容として死を受け入れることができるのか(できなくても死にますが)。自分の人生に悔いはないのか。やり残したことはないのか。これだけはしておきたかったということはないのか。もう一度行きたいところ、食べたいもの、観たいもの、聴きたいものはないのか。死ぬまでの時間をどうすごすべきか。家族や友人にはどう対応すべきか。

 いろいろ考えなければならないことがあります。

 リアルに想像すればするだけ、思いがけないこと、忘れていたこと、気づかずにいたことなどが思い浮かびます。あいつにも会っておきたい、あの本をもう一度、読みたい、家族に見られたくないものの処分、PCのアダルト動画の閲覧歴も消さなければなりませんし、秘密の手紙や写真、メールも処分しておかなければなりません(私の場合、大したものはありませんが)。