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文春アーカイブス 色あせない100年分の人間ドラマを読む

マスコミの大家・大宅壮一が綴った 戦後、世田谷の奥で百姓をしていた時代(後編)

ユーモア溢れる文体で自身のマスコミ生活を振り返った

2018/05/06

source : 文藝春秋 1965年2月号

genre : ライフ, 働き方, メディア, 読書, テレビ・ラジオ, ライフスタイル

少年期から変わらぬ天邪鬼精神

 それはともかく、命びろいした私は2年間ジャワで軍の宣伝活動の仕事をした。戦争中の日本では、作家も評論家も半ば強制的に文学報国会というような組織に入れられて、軍国主義に奉仕させられた。

 このとき私は現地から大本営報道部長・松村秀逸あてに、「日本の宣伝班の組織はいかにでたらめであるか」という主旨の長文の手紙を送った。

 これが戦時内閣の次官会議で問題になった結果、その宣伝班を編成したある少佐が責任を負わされて、満州の奥地へ左遷されるという事件がおこったりした。

 軍に微用されたとき、はじめのうちは「位」がはっきりきめられていなかった。位の上の者に敬礼をしないと、したたか横っ面をはりとばされるので、部隊長に抗議したが「当分誰にでも敬礼しておけば間違いない」という冷たい返事だ。

 そこで相棒の松井翠声と相談して、人間の腕の形をしたぬいぐるみのようなものを作り、それを肩のところへつけて、ポケットの中からヒモで操作すれば、パッと敬礼できる、という「自動敬礼機」を作りかけたりもした。

 反逆というか、そういう天邪鬼【あまのじやく】的なところは、少年時代からずっとつづいて変らぬ私の性質のようである。

©須田善一/文藝春秋

“敬遠の4球”的卒業

 話がまたまたそれてしまったが、本筋にもどすと、この最大の苦手体操が、中学検定資格の最終日にあって、私はせっかくここまできながらついにだめか、と前日からすっかりふさぎこんでいた。

 ところが当日は幸運にも雨で、体操の実技はとりやめとなり、筆記試験だけですんだので、私はやっと検定試験にパスすることができた。

 私の学生時代はこんな具合で、満足に学校を卒業したのは、京都の第三高等学校だけである。ここだって“満足”かどうかあやしいものだが、とにかく卒業証書をもらったのはここだけである。

 なんでも卒業のときの教官会議で、私の及落が問題になった。ろくに授業に出席もしないし、成績もよくない。労働争議の応援などに忙しくて、教室に顔を出す暇がなかったのだ。

 満場一致で私の落第がきまりかけたとき、ただ1人校長が「どうしても大宅は卒業させる」とがんばってきかない。

 他の教官がいろいろ理由を上げて、落第させるべしとのべたが、校長は憤然として「あんな男をあと1年もこの学校に置かれてたまるもんか」と大声で叫んだということである。

 プロ野球を見ていると、長島や王がボックスに入るとランナーがいる場合、たいていストレートの4球で出してしまうが、私もいわば敬遠の4球で三高を出たようなものだと思っている。エースである校長を脅かして学校を卒業したのである。

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