長年マスコミ業界の最前線で活躍し、「駅弁大学」や「恐妻」など、数々の造語を生み出したジャーナリスト・大宅壯一氏。投書マニアであった小学生時代、米騒動を先導して中学校退学など、ユーモアあふれる文章でご自身の生い立ちを語っておられました。

出典:文藝春秋 1965年2月号「大宅壮一ができ上るまで――マスコミ生活50年の記」

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頭にのっけるものはなんでも嫌いだった

昭和40年当時の大宅壮一氏 ©安藤幹久/文藝春秋

 私は64になった。考えてみると私はもう50年もマスコミの中で暮していることになる。うかうかとすごして来たようにも思うが、これは何といってもありがたいことで、読者の方々には感謝している。が、私は天に向って感謝はしない、というのが私の方針だ。

 大体、昔から私は、頭にのっけるものはなんでも嫌いだった。

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 だからまず帽子が嫌い、次いで神さまが嫌い、それからなになに主義というのが大嫌い……というわけだ。したがって天や神に感謝することもない。

 私が小学生のころ「日本少年」とか「少年」「少年倶楽部」という雑誌があった。私は今でいう投書マニアで、やたらに投書してはメダルをもらっていた。最近、島根県から未知の老人が訪ねてきて、「私はあなたの読者の中で一番古いという自信があります」という。聞いてみると、私の小学校時代の投書を覚えているということだった。

亭主はこわれないのか

 また、私のいた中学の2年上級に川端康成君がいて、投書少年の私の評判を聞いて、「大宅の所へ行くと、やたらにメダルがある」というふうな随筆を書いてくれている。少年時代に私のメダルをうらやましがった川端君は、後に文化勲章という非常に金がたくさんついているメダルをもらったが、逆に私は小、中学校時代以降は、メダルとはさっぱり縁がなくなってしまった。

 この川端君とは東京に出てから、阿佐ケ谷で、家主も同じ、つくりも同じ、二軒長屋のような家にずい分長くいっしょに住んだ。彼は当時から、私よりもはるかに収入があったが、川端夫妻というのは大変な浪費家で、金が入るとすぐに使ってしまう。

 ところが、金がなくなってもケロリとしたもので、近所の酒屋、魚屋、八百屋あたりから、金を払うどころか、逆に借りるのだ。

こちらも昭和40年当時の川端康成氏 © 山川進治/文藝春秋

 これは川端夫妻の人に知られていない特異な才能だと思っているが、私の所にも始終、いろんなものを川端夫人が借りにきた。

 あるとき「ちりとりがこわれたから貸して下さい」と奥さんが見えた。毎度あんまり見事に借り上げられてしまうので、少々いまいましく思っていた私は、

「たまには亭主がこわれたから貸してくれ、と来たらどうですか」

 と皮肉を言ったことを覚えている。

 話が横道にそれたが、とにかく私は少年時代から半世紀にわたってマスコミというマンモスにとっくんできたわけである。

頭の中の原稿

 私は大阪と京都の中間にある高槻という町に合併された小部落のしょうゆ屋に生れた。ものを書くのが大変好きだったけれども、父が早く亡くなって家の仕事をほとんど私一人でやらなくてはならず、勉強やものを書く時間がなくて弱った。中学には毎日1里の道を歩いて通ったのだが、この往復の時間が馬鹿にならない。ぼんやり歩いていてはつまらないと気がついて、そのあいだに何かものを考えるという習慣を作った。そしていつのまにか、頭の中に原稿用紙がちゃんと浮んできて、歩きながらそのマス目に文字を書きこむことができるようになった。将棋をさしながら道中をしたというのと同じだ。

 だから学校から帰って机に向うと、あとはただ頭の中の原稿用紙に書いた文章を清書すればいいだけで、時間的には大いに助かった。だから原稿を書き直したりすることは全くなかった。

 習慣というものは恐しいもので、この癖はいまでもつづいている。1年間に何千枚か原稿を書くけれども、原稿用紙を書きつぶす、ということはほとんどないといってもいい位である。