文春オンライン

発掘!文春アーカイブス

「駅弁大学」「恐妻」など数々の新語を生み出したマスコミの大家 大宅壮一ができ上がるまで(前編)

「駅弁大学」「恐妻」など数々の新語を生み出したマスコミの大家 大宅壮一ができ上がるまで(前編)

ユーモア溢れる文体で自身のマスコミ生活50年を振り返った

2018/05/06

source : 文藝春秋 1965年2月号

genre : ライフ, 働き方, メディア, 読書, テレビ・ラジオ, ライフスタイル

note

金門馬祖には“隔日戦争”もあった

 私は後年ソ連へ行ったとき、このシステムで学校教育が行なわれていることを知った。ソ連では大学に入学するためには、ある期間労働に従事させることになっている。大学入学の資格として一定期間の労働が必要なのである。私が50年前に考えたことを、いま最も進んだ教育を実施している国の一つで、実際に行なわれているのを見て、私は大変愉快な気持だった。

 また先年、金門馬祖へ行ったときのことである。台湾政府の要人に「戦争を見せてくれ」といった。たしかに最前線につれていってくれたのだが、全然戦争らしきものは見当らない。

「どこで戦争をやっているのだ」と聞くと、

ADVERTISEMENT

「弾の飛ぶのは一日おきで、奇数日がそれに当る。今日は偶数日だから休みだ」

 と、すましたものである。

 こうなると戦争なんてものも一種の観光資源ではないか、という感じがしてくる。現にイスラエルとかコンゴなどでも、世界中の人間が観光ルートにのってどんどんやってきて、“戦争見物”をしている。

 信じられないようなことだが、戦争がだんだんと観光資源に変ってきているようだ。金門馬祖の“隔日戦争”も、その例の一つだ。

 さて私の隔日登校の方はこの“大論文”のおかげで、そのときは例外的に認めてくれたが、結局のところは、米騒動のとき、私がアジ演説をしたことがばれて中学を退校させられてしまった。

©樋口進/文藝春秋

“後悔された”洗礼

 当時、関西で社会運動を指導していた賀川豊彦にすっかりかぶれてしまったのもその頃のことだ。後に商工大臣になった“水長”こと水谷長三郎と2人で、賀川氏のところへ出かけて洗礼を受けた。まだ、あまり知られていなかったが、イエス・キリストさまよりもクリスチャンで社会運動家であった賀川豊彦の弟子になりたくて仕方がなかったのだ。

 賀川さんとともに貧民窟に入りこんで、労働争議の手伝いなどをやったりした。もっとも私の場合、洗礼をうけることには、もう一つ別の目的があった。水長の場合もそうだったろうと思うが、キリスト教に出入りすると、女の子に接近するチャンスが多いということだ。

 いまは幼稚園から大学まで男女共学で、自由に交際できるが、当時は「男女7歳にして席を同じゅうせず」の時代で、同じ位の年齢、同じような趣味、教養をもった女性と自由に接触する機会を得るためには、教会へ行くよりほか手がなかった。はじめはこっちの目的の方が大きくて、教会に通っているうちにずるずると労働運動の方に深入りすることになった。しかし、途中で水長と2人で賀川さんに反逆し、全然教会へ行かなくなったので、賀川さんは怒った。

 賀川さんは後に、

「私はこれまでに数万人の人に洗礼を施したけれども、大宅と水谷に洗礼を施したのは間違いであった。深く後悔している。あれだけは私の大失策であった」

 と、ある所で演説したということだった。

 そのころは賀川豊彦に対する熱もさめていたが、それを聞いて水長と2人で、「それならバケツに水を入れて洗礼を返しにいこうじゃないか」と相談したことを覚えている。

後編〈マスコミの大家・大宅壮一が綴った 戦後、世田谷の奥で百姓をしていた時代〉に続く

「駅弁大学」「恐妻」など数々の新語を生み出したマスコミの大家 大宅壮一ができ上がるまで(前編)

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

文藝春秋をフォロー