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前川喜平 前事務次官“初告白”「完全に右翼だった軍歌少年時代」

前文部科学事務次官・前川喜平 2万字インタビュー #1

2018/06/22

genre : ニュース, 政治

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香港で生まれてバンコクで育った帰国子女の母

――他には奈良独特の体験というのはありましたか?

前川 同和地区の多い地域でしたから、クラスメイトの中にもそこの子どもたちがいましたが、全く意識することはありませんでした。これはおそらく、母親の影響が大きくて、母は差別意識や偏見を持たないよう教育をしてくれていたんです。というのも母は戦前に香港で生まれてバンコクで育った帰国子女。母の父は三井物産の支店長をしていた人なんです。戦時中に東京に戻ってきて、戦災に遭って、戦後は財閥解体で父親が失職。苦しい時期を経て、女学校を卒業し、私の父と知り合って奈良のど田舎に来たという人生で、まぁ意識してリベラルだったかわかりませんが、無意識のうちに古い道徳には縛られないところがあったんじゃないでしょうか。

 

――お父様はどんな方なんですか。

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前川 父は早稲田大学の政治経済学部を出た人で、仏教青年会に入って仏教の勉強をしていました。田舎から東京に出て過ごした人ですし、母と同じく古い因習には縛られていませんでした。

――そういうご両親だからこその人格形成はあったと思いますか。

前川 今から考えればあると思います。弱者に対する思いというのは、特に母から引き継いだところが大きい気がします。今でも覚えていますが、小学校の近くに工場ができて、そこで働く家族がたくさんやって来て、転校生が何人か来たことがあるんです。その中に黒人系のハーフの子がいまして、髪の毛も肌の色も違うから、仲間はずれにされてしまってね。でも私はさっき言った「地域のボス」的な家の子どもだったから、主導権を取れる場面では彼を入れてボール遊びをしたり、あるいはピアノ教室の帰りに彼がとぼとぼ歩いているのを見つけると「乗りなよ」ってうちの車に乗せて送ってあげたりしました。そのとき彼はお米を入れた一升瓶を大事そうに抱えて歩いていましてね。後から母親に背景を教えてもらって、貧困の現実を子供心に刻むような体験をしました。今でも鮮明に思い出しますね。

東京に転校して不登校「私の人生の最も暗黒な時代」

――小学3年生の1学期に奈良から東京へ転校。最初は文京区に住まわれたそうですね。

前川 1学期の終わりに転校したものだから、クラスに仲良しができる間も無く夏休みに入ってしまった。ところがプールの授業が夏休み中にあったんです。でも、奈良の学校にはプールがなかったので、まったく泳げなかったんです。顔を水につけることすらできなかった。それで、プールの授業が嫌で嫌で。しかも、あの夏はそれほど暑くなかったので、プールに一人佇んでいるとガタガタ震えてきて……。夏休み明けの2学期から3学期が終わるまで、不登校になってしまうんですが、それはプール体験が大きかったと思います。

 

――それまでは奈良の田舎のヒエラルキーではトップにいたのに……。

前川 東京ではボトムですよ。母が東京の人間だから東京弁はできたんだけど、やっぱり言葉遣いは違ってよく笑われたのも嫌だった。私は母親のこと「お母ちゃん」って呼んでたんです。でも、クラスメイトは「僕たちはママって言うよね」って(笑)。「奈良に帰りたい!」ってずっと親に言ってました。私の人生の最も暗黒な時代です。

――その後、港区の小学校に転校されています。

前川 親が独立して家を構えたんです。それが小学4年生になる時。今度はうまくやろうって考えて、じわりじわり、少しずつ声をかけて仲良くなって、うまく友だちを作っていきました。ハンガリー人の子がいたのを覚えていますね。あのへんは大使館があるから。この学校にはうまく馴染めまして、5年生で学級委員もやりましたよ。

――出世しましたね。

前川 出世してますよ(笑)。転校生の気持ちがよく分かるから、積極的に転校生とは仲良くしました。