“総理のご意向文書”の存在を告発し、加計学園問題に一撃を与えてから1年。前文部科学事務次官・前川喜平氏の「履歴書」を150分にわたってお伺いしました。まずは、人格を形成した不登校時代、青春時代の秘話の数々。聞き手は『文部省の研究』の著者・辻田真佐憲さんです。(全3回記事のインタビュー)
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若い人たちとはまだ今でも会っています
――「『総理のご意向』文書は本物です」と、前文部科学事務次官の立場で告発し、大きな反響を呼んでから1年が経ちましたが、身の回りの環境は変わりましたか?
前川 ずいぶん変わりましたね。特に交友関係が大きく変わったんですよ。今まで付き合っていたいろんな人と疎遠になっちゃって。
――今までのお付き合いというのは。
前川 政治家とか役人です。もちろんあの後も繋がっている人はいます。文科省の官僚でも審議官以下、若い人たちとはまだ今でも会っています。ポストを気にし始める審議官以上だと、「ちょっと今は前川さんとは会えない」というのはあるでしょうね(笑)。
――官僚の中でも文部官僚というのは地味で表に出てくる場面がなかなかないと思うんです。そんな中で、前川さんはまさに「異色の官僚」。今回はライフヒストリーを含め、これまでの官僚人生、文部行政の現代史をお伺いしたいと思います。
前川 いえいえ、普通の大人しくしていた官僚ですよ(笑)。
祖母が「なんで4がついてんねん!」って
――お生まれは1955年、奈良県の今は御所(ごせ)市になる場所ですね。そのあと小学3年生で東京に引っ越されますが、奈良時代の学校体験で印象的なことは何でしょうか。
前川 秋津小学校というところに3年生の1学期までいました。小学1年時の女性の担任の先生は優しかったんですが、2年3年の時の担任はかなり年配の先生で厳しかったですね。昭和30年代後半のことですから、その先生はおそらく戦前の国民学校で訓導をやっていた方だと思います。ですから、あまり民主的ではなかったですよね(笑)。体罰も受けました。
――どんな体罰を?
前川 こちらも本当に悪いことしたんだからしょうがないんですが、ほっぺたをつねられました。僕だけじゃなくて、悪さした何人かが並べられて、ビッビッビッて。痛かった。
――勉強はよくできたんですか?
前川 私の母親は教育ママというほどではないけれど、参考書だとかドリルを買ってきてくれました。田舎の小学校ですから誇れることでもないと思いますが、1年生の1学期の体育「4」を除けば、転校するまで成績は全て「5」だったんです。でも、これには裏がありましてね、私の実家というのは地主の家で、その地域では「ボス」だったんです。それでうちの祖母が「なんで4がついてんねん!」って学校に文句言ったらしいんですよ(笑)。それ以降、オール5の成績になったという。「井の中の蛙」そのものの世界で恥ずかしい話です。
――強烈なお祖母さんですね。
前川 正確には養祖母になるんです。私の父には東京で前川製作所という冷凍機の会社を作った実父母の家と、実父の兄で奈良の本家にいた養父母の家がありました。この奈良の家が古い偏見や差別、あらゆる封建的なものを残したところで、祖母なんか僕の友だちに向かって「喜平ちゃんと呼ぶな、ボンボンと言え」って真面目な顔で怒るんです。学校に行くときに「喜平ちゃん行こか」じゃなくて「ボンボン行きまひょか」と言えと。私はそれが嫌でね。妥協の産物として「ぼうやちゃん、行こか」になりましたけど。