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前川喜平 前事務次官“初告白”「完全に右翼だった軍歌少年時代」

前文部科学事務次官・前川喜平 2万字インタビュー #1

2018/06/22

genre : ニュース, 政治

麻布中学で迎えた「1968」

――中学受験をして麻布に行かれますが、やはり塾には通っていたんですか?

前川 6年生になってから、急に両親が「喜平を受験させよう」って言い出しまして、じゃあ家から歩いて行ける麻布を受けるということになったんです。担任からは「今からじゃ遅いですよ」って言われましたけど、親が「蛍友会」っていう塾を探してきて、毎週日曜日、目黒まで通っていました。途中で母がこっちの方がいいと言って「日本進学教室」という塾に替えました。

 

――麻布には中高6年間通われますが、この頃の思い出といえば何でしょうか。

前川 入学したのが昭和42年、1967年です。その翌年、私が中2の年というのは日本だけでなく、世界中で学生が暴れまわった1968年なわけです。パリでは5月革命が起こり、日本では東大や日大を中心に学生運動が盛んになる。麻布はそういうものにすぐ影響を受けちゃうんで、高校のお兄さんたちがヘルメットかぶって角棒持って、「制服自由化だ!」とか何とか、学校を変えるんだと執行部に要求を突きつけていました。校長室占拠なんていうこともありましたよ。それで、校長が交代して、校長代行が校内を仕切ることになるんですが、この人がとんでもない人で。とにかく力で押さえつけるんです。これには教員の中からも反発が出て、職員室が分裂しちゃうわけ。結局は校長代行は失脚、校長代行派は一掃されるんですが、まあひどかったですね。警察が入ってきたこともあるし、ロックアウトになったこともありました。

――そこまでですか。

前川 高校2年の時にロックアウトになったので、突然の秋休みになったんです。友だちと信州に遊びに行きました。

――そういう無秩序な学校の状態を、当時はどんなふうにご覧になっていましたか?

前川 自分しか頼るものがないんだ、何が正しいかは自分で選び取っていくしかないんだって思うようになりました。自分で確かだと思ったことしか、確かではないんだ、というような。

小説家になりたくて応募した作品は「けやき賞」

――その頃の麻布出身者には官僚の道に進んだ方も多いと思います。みなさんそういう傾向にあるんでしょうか。

前川 みんながそうかは分かりませんが、多かれ少なかれ、そういう経験はしていると思います。自分で自分の道を見出すしかないと考えた人間は、多かったと思いますけどね。

 

――大学受験も、そういう自分の道を見定めて取り組んでいたんですか?

前川 私は理系のクラスにいて漠然と宇宙物理学者になりたいなどと思っていたんです。アインシュタインを凌ぐような物理学を打ち立てて、もっと宇宙の真理を探りたいという野望を抱いてました(笑)。分かりもしないのに相対性理論の本を買って読んでましたよ。でも、理系で受験するためには数Ⅲが必須。ところが歯が立たないわけ。それで高3の夏休みが終わる頃には文転することを決めました。

――それで東京大学の文科を目標にすると。

前川 詩人や小説家になりたい気持ちもあったんです。高校の時に『高1コース』から『高3コース』まであるあの雑誌を毎月購読していたんですが、そこに学研が主催している「コース文学賞」というものがあって、そこに小説を応募したことがあります。そしたら、上から7番目の賞になったの(笑)。「けやき賞」っていう賞をもらいました。

 

――どんな小説だったんですか?

前川 港区の小学校時代に仲良くなった転校生の友だちと、一緒に北海道のおばあさんの家に遊びに行ったことがあるんです。そこで経験した人間関係の機微、ある一人の人間の生い立ちに秘められたものを小説にしたんですけどね。彼とは今も仲がいい友だちです。この小説がもっといい賞をとっていれば、本気で文学を目指していたかもしれませんね(笑)。