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経営の神様・松下幸之助が綴った「生活費さえ借り歩いた」ドン底の日々とは(後編)

経営の神様・松下幸之助が綴った「生活費さえ借り歩いた」ドン底の日々とは(後編)

「日本人の素質は、本来すぐれている」戦後世代へのメッセージ

2018/07/19

source : 文藝春秋 1965年4月号

genre : ビジネス, 企業, 経済, マネー, 歴史

note

2億円の融資も水泡に帰した

 もちろんこれでは儲かるはずがない。資金はいよいよ逼迫(ひっぱく)してきた。23年の6月ごろだったと思うが、どうしても2億円の資金が必要になったことがある。それは3カ月後の9月には公定価格が改訂される見通しがついた。そうなれば月々7千万円の増収になって、経営も多少はラクになる。

©文藝春秋

 ところが、その9月まで生産をつづけるためには、つなぎ資金としてどうしても2億円要る。それが残念ながら手元にない。

 せっぱつまって私は住友銀行に出向いた。そして当時の頭取であった鈴木剛氏にお会いし、この間の事情をくわしくお話しした。すると頭取は、「松下さん、よくわかりました。お貸しいたしましょう」

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 と、ポンと2億円の融資を約束して下さったのである。前途不安な松下電器である。しかもこんな窮状に立っている会社に、普通ならば銀行は貸すはずがない。それを文句も言わずにスッと貸して下さったのであるから、こんなにうれしかったことはない。

 ところがいざ9月になってみると、無情にも公定価格の改訂はさらに3カ月延期ということになってしまった。改訂があってこそ、この2億円が生きてくるというのに、これではただいたずらに消えてしまったというほかない。せっかくの鈴木頭取のご好意にどうして合わせる顔があろうか。くやしいとも何とも表現できない思いであった。

 そのあとで頭取にお会いした時、鈴木さんは「松下さんどうでした。お役に立ちましたか」と親切に聞いて下さったが、さすがの私も、“いやあれはご好意の甲斐もなく3カ月の間に消えてしまいました”とは、どうしても言えなかった。「ありがとうございます。おかげで窮状を脱することができました」

 と言うのが精一ぱいで、内心、何ということかと改めて唇をかみしめたのであった。

生活費も借り歩く

 そんなこともあって、1カ月先の資金の見通しも立たなくなり、この年の秋には、ついに創業以来はじめて給料を分割払いにし、年末の賞与もついに一銭も出せなくなってしまったのである。

 翌24年には、とうとう大幅に物品税を滞納してしまい、私は日本一の滞納王として新聞やラジオで全国すみずみに公表されてしまった。

 こんな状態であったから、従業員の方も1万5000人であったのが、3500人にまで減ってしまった。それまで松下電器では、創業以来20数年というものは、事業縮小のために、かつて1人の人も解雇したことはなかった。金解禁にともなう昭和はじめのあの大変動の時でも、解雇ということはしなかった。にもかかわらず、ここに来てのこの始末である。私としてはまさに断腸の思いであった。

 なかには会社の前途に不安をおぼえてみずから退社した人もあったが、また事情を納得して、やむなくやめてもらったという人もずいぶん多かった。まさにドン底、暗澹(あんたん)たる思いで日々をすごしていたのであった。

 一方、私の個人的な生活状態はどうであったかというと、先にも述べたように、私は財閥指定を受けて以来、資産はすべて凍結され、毎月の女中さんの給料まで、進駐軍のゆるしを得なければ払えなくなっていた。私の生活費は、当時の公務員のベースに従って規定され、その範囲内での予算と実績を進駐軍に報告しなければならなかった。

 しかし、一社の社長としてこれでまかなえるはずがない。かと言って資金はすべて凍結されているから売り食いもできず、毎日の生活費にも次第に事欠くようになっていた。やむなく親しい友人から月々の生活費を借りてまわらねばならなかった。

たった4年で日本一の借金王になってしまった

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 しかも私には、戦後すでに莫大な借金があった。というのは、先にも述べたが、戦争末期になって、軍は私に、ラジオなどの大量生産の経験を生かして、木造船や木製の飛行機を生産するよう要請してきた。むろん断われるはずがない。そこでその仕事にもとりかかったが、これら一切の資金については、当時はまだ個人経営色が強かったから、一先ず私個人の借金として銀行から借入れ、会社には株券で払いこんでいたのである。

 ところが終戦になると、戦時補償は一切打ち切りとなり、軍に納めた代金はすべて帳消しとなった。だからこれらの会社はすべてつぶれて株券はタダ同然になったが、銀行からの私の借金は帳消しにならず、そっくりそのまま残ってしまった。

 こういう状態であったから、戦後の財産税を納める当時、個人としてはおそらく私が日本一大きな借金を背負っていただろうと思う。従って私は一銭の財産税も払う資格がなかったわけである。

 このように、わずか4年ほどの間に、公私ともに文字通りドン底におちいってしまったが、しかし私は決して悲観してはいなかった。

 一方において、戦後の世相に強い公憤をおぼえ、“繁栄によって平和と幸福”をというスローガンを立てて、PHPの研究をこのときに始めていたのである。